メキシコの最近7人の大統領の政権下で殺害されたジャーナリストの数は以下のようになっている(出典:sinembargo.mx)。
エンリケ・ペーニャ・ニエト(2012から現職)56人
フェリペ・カルデロン(2006-2012)83人
ビセンテ・フォックス(2000-2006)29人
エルネスト・セディーリョ(1994-2000)20人
カルロス・サリーナス(1988-1994)38人
ミゲル・デ・ラ・マドリード(1982-1988)34人
ホセ・ロペス・ポルティーリョ(1976-1982)15人
これ以前の大統領政権下では各大統領の元で1人から4人が殺害されていた。
1952年から289人のジャーナリストが殺害されているという。
2006年から麻薬組織カルテルの動きがより活発となり、当時のカルデロン大統領はカルテルの撲滅に取り組んで、彼らと軍隊と連邦警察とで激しい戦いが繰り広げられた。ペーニャ・ニエト大統領は今年任期を終えることになっているが、現在までの殺害ペースから判断してカルデロン大統領の政権下に近い数字になりそうだ。
この取り締まりが容易でないのは殺害が多発しているカルテルの根城のあたる地域では政治家や警察までもカルテルに癒着してお金を貰っている場合が往々にしてあるからである。その為、殺害事件が起きても、その犯人が検挙されることは殆どない。よって犯行者が処罰されることがないのである。無処罰の比率は99.7%とされている。殺害されても誰が犯人か不明という場合が殆どだということなのである。
メキシコ誌『Artículo 19』 は、最近426件の暴行事件の内で53件は国家警察によって齎されたものだと指摘している。
この6年間にジャーナリストが危害を被った例は2020件。その調査報告は800のファイルに収納されているが、事件の解決を見たのは僅かに3件だという貧祖な状態にある。
12人のジャーナリストがメキシコ国立自治大学と協力してドキュメンタリーを制作しているが、その中で一人のジャーナリストが次のようなことを語っている。
「外出するのは非常に辛いことだ。そして家族から離れることも同じだ。小さい頃からジャーナリストになることを望んでいた。いつも好奇心が旺盛だった。ある日、私のレポート記事を取り下げるように(カルテルが)要求して来た。その中に何を見たのか不明だ。でも私はまだ生きている。私の唯一の盾はラップトップと携帯電話だけだ。脅迫を受けてから私はもっと強くなった。人生への新しい取り組みもできた」と。
昨年12人目の犠牲者となったグマロ・ペレス(35)は彼の子供が学んでいる教室にクリスマスのフェスティバルということで居合わせていたところを銃を持った数人の男が教室に乱入して彼を殺害した。この事件が起きたベラクルス州は最も犯罪の多発している州である。
メキシコでジャーナリストを志すのは恐怖とお金のジレンマの中にあるという。恐怖に負けず勇気をもって犯罪を記事にして暴いて行けば死と直面することになる。犯罪組織に癒着して彼らが望んでいる記事内容にすればお金がもらえる。そのような事情があることを知っている読者にとって報道内容への信頼度は20%だという。
それには理由がある。ジャーナリストの目から見れば、彼らを守るべき政府は頼りにならない。そのような庇護の存在しない中で事実を暴き報道して行くのは勇気がいる。多くのジャーナリストは結局差し障りのない程度の公式見解を主体にした記事内容に収めていることから読者からの信頼度が低くなるのである。
そのような事情の中で、敢えて勇気を奮って真実を暴き報道しているジャーナリストもいる、シナロア州で僅か3000部しか発行していなかった『La Paret』の発行者マルティン・ドゥランだ。彼は信頼していたジャーナリストのハビエル・バルデスが殺害されてから、彼の忠告に従って現在スペインのバルセロナに逃れている。小休止といった所で、新しい報道の仕方を練っているという。戦争下の従軍記者のように戦場のあり様を伝え、同時に平和な面も報道するような形にすべきだろう。これまではカルテルと向き合って彼らの悪行を喧伝することを強調して来たきらいがあった。そのような変化を彼は内心感じているという。
ジャーナリストの死と同様に一般市民も多く殺害されている。昨年は11月までにメキシコで殺害された人の数は23,101人という異常さであった。その為、隣国の米国ではメキシコへの旅行は出来るだけ控えるように勧告しているという。