間違った評価
最近、文在寅(ムン・ジェイン)大統領の対北宥和政策をチェンバレンの対ナチス宥和政策に例える保守派の論をよく目にする。しかし、残念ながら、両者の宥和政策はその性質・方向性において、まったく異なるものであり、両者を同列に論ずることはできない。
チェンバレンに対する間違った評価が横行しているので、チェンバレン外交の再評価の一助になればと思い、以下述べる。
文在寅は拙劣な感情外交を展開しているのに対し、イギリス首相ネヴィル・チェンバレン(Arthur Neville Chamberlain)は冷厳な戦略外交を展開した。チェンバレンは1930年代の後半期において、ヨーロッパにおける最大の脅威がソ連の共産主義であるという確信を抱いていた。ナチス・ドイツの脅威などはソ連のそれと比べれば、長期的に封じ込めが充分可能だと考えていた。
左派勢力の猛威
1929年の世界恐慌により、各国の保守政権が動揺し、生活に困窮した労働者争議の追い風を受け、左派政権が続々と台頭する。
イギリスではラムゼイ・マクドナルドが労働党政権を率い、アメリカではフランクリン・ルーズヴェルト民主党政権へと繋がり、フランスではエドゥアール・エリオ、エドゥアール・ダラディエ、レオン・ブルムなどの左派が政権を率いた。
ソ連・コミンテルンはこうした各国の左派勢力と連携することを決める。いわゆる「人民戦線戦術」だ。
「人民戦線戦術」に賛同したのがルーズヴェルト(事実上の賛同)であり、フランスのブルム、スペインのアサーニャらである。この間、フランスは1935年、ソ連と仏ソ相互援助条約を結んでいる。
保守党の基本戦略
イギリスの保守派はこうした状況に危機を抱いていた。マクドナルドが首相を引退すると、スタンリー・ボールドウィンが保守党政権を発足させる。ボールドウィンは就任早々、真っ先にナチス・ドイツと連携し、左派勢力に対抗することに取り組んだ。ボールドウィンが内閣を成立させるのが1935年6月7日、その僅か11日後の18日に、英独海軍協定を締結している。
ナチスと連携し、共産主義を封じ込めるという方針が保守党議員たちの一致した外交の基本戦略であった。(チャーチルのような一部の変固者だけが反対していた) そして、この基本戦略をボールドウィンに続く、ネヴィル・チェンバレンも引き継いだのだ。左派勢力が猛威をふるう当時の世界情勢を考えれば、ボールドウィンやチェンバレンらのイギリス保守党の戦略は当然の帰結であり、極めて妥当かつ適切なものであった。
彼らの宥和政策の戦略を文在寅韓国大統領の低俗な感情外交と同列に論じられようか?まったく次元の違うものではないだろうか?
ミュンヘン会談は余計だった
ただ、チェンバレンは一つ、余計なことをして失態を晒した。ミュンヘン会談である。チェンバレンは1938年、ミュンヘンでダラディエやムッソリーニらとともに、ヒトラーと直接会談し、ヒトラーの領土(ズデーテン地方)要求を受け入れた。一方で、それ以上の領土拡大要求や軍事行動をしないという約束をヒトラーと交わした。
そして、その約束文書をチェンバレンはメディアの前で誇らしげに高々と掲げ、「ヨーロッパの平和は保障された」と大見栄を切った。民衆向けのパフォーマンスをして見せたのだ。父のジョゼフに倣った貴族主義を貫いたチェンバレンらしくない行動であった。間もなく、約束は反故にされ、チェンバレンの持ち帰った文書は紙屑と化した。そして、民衆感情に火が付き、チェンバレンは世論の袋叩きにあう。世論に引きづられて、イギリスはドイツに宣戦布告する羽目になり、チェンバレンは失脚する。
ミュンヘン会談など行う必要はなかった。放っておけば、ドイツはソ連と戦い、互いに潰し合ったのだから。「ヨーロッパの平和は保障された」などと言って、つまらないパフォーマンスをしたがために、民衆のしっぺ返しも大きくなってしまったのだ。
なぜ、冷厳なチェンバレンがこんなパフォーマンスに傾いたのか。それは、党内で、対独強硬論をやかましく喚き立てていたチャーチルのような目立ちたがりの調子者を抑える必要があったからに他ならない。いずれにしても、チェンバレンの苦悩を我々は知るべきであり、くれぐれも保守の方々は、文在寅などと同じに扱うことのなきよう。
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宇山 卓栄(うやま たくえい)
著作家。1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。大手予備校にて世界史の講師をつとめ、現在は著作家として活動。『世界史は99%、経済でつくられる』(扶桑社)、『民族で読み解く世界史』(日本実業出版社)などの著書がある。