徐福伝説に夢を見続ける中国の老記者㊥

『国際貿易』の2月6日号に中国徐福会会長の張雲方氏による『私と徐福』㊥が掲載された。

掲載原稿は以下の通り。

谷牧副総理来日で深まる縁

80年代の中頃、私は仕事の関係で人民日報社を離れ、谷牧副総理が主宰する国務院中日経済交流会の秘書長を拝命した。

谷牧氏と筆者(筆者提供)

89年、谷牧副総理が訪日した。谷牧先生は経済と対外開放分野を所轄する責任者だったため、日本の大来佐武郎、向坂正男と西ドイツのグトウスキー先生を中国政府経済顧問に招聘するよう中央政府に建言した。自らミッションを率いて日本を訪れ、日本政府と長期低利円借款(ODA)交渉に臨んだ。結果、資金不足という当時中国の大問題を解決し、同時に中日経済交流会と中日政府閣僚級会議を設置した。そのため、谷牧先生は日本の官界と民間を問わず尊敬された。

大来先生は日本政府に代わって天台烏薬を1本贈ったが、これは鄧小平ら中国指導者に続いて贈られた不老長寿の植物(合計4本)だった。私は大事に持って帰るよう谷牧先生から命じられた。私と徐福の切っても切れない縁はますます固くなっていた。

21世紀に入ると、私は『中国の徐福研究はいよいよ花盛りなり』『徐福文化と徐福文化研究の意義』『東方文化と徐福文化』『倭人、倭の文化、斉の文化、東渡文化及び徐福』『羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里』『徐福東渡――日本と韓国における徐福の記憶及び現代の影響』『徐福過此の心温まる記憶』『徐福は佐賀に到れり』『徐福東渡と中韓交流』等の学術論文を相次いで発表した。自分が愛してやまない徐福をより多くの人々に知ってもらい、歴史的に記載された東洋文化交流を切り開いた始祖である徐福の不思議な史実を共有してもらおうとの願いを込めた。

大来佐武郎氏と筆者(筆者提供)

 

2007年、中日韓三カ国首脳会議が韓国で開催され、会議が風光明媚な済州島(チェジュ島)で閉幕すると、温家宝総理は李世基韓国徐福会会長の提案により済州の徐福公園のために園名を揮毫した。このことが地元紙と李世基先生により一大ニュースとして発表された時、私は子供のように大喜びで歓声を上げた。

どういう風の吹き回しか、定年退職後、中国徐福会2代目会長劉智剛先生から、3代目中国徐福会会長をやらないかとの打診が私のところへ来た。その時には、私も驚いた。初代会長・李連慶先生はかつて私が東京特派員だったときの在日本中国大使館文化参事官で、私たち記者とは気心の知れた友人だった。

中国徐福会発足当初、李会長と蕭向前大使から声がかかり、名ばかりの副会長になっていたが、その後会長の引継ぎを打診されたとき私はそれを断った。私の関心は会長になることではなく、もっぱら徐福研究にあったからだ。しかし、劉智剛先生は私の尊敬する先輩であり、往年東京で共に働く古くからの友人であったので、その要請はむげにはできなかった。

こうして、私と徐福の距離感ゼロのお付合いが始まったわけだ。

(張雲方・中国徐福会会長)


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2018年2月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。