人はなぜ“比較”が好きなのか?

ネットや雑誌等の人気特集で、「会社の給料比較」「年代別収入比較」「都道府県比較」「23区比較」…等々、比較記事がたくさん出ています。

これは「…比較」という特集を読者が好むからです。どうして人は比較が好きなのでしょう?

フェスディンガーは、「人には自分の意見や能力を正しく評価されたいという欲求があるために、自分と他者を比較する傾向がある」とし、「下方比較」と「上方比較」という概念を提唱しました。

自己高揚動機に基づいて自尊心を上昇させるため、自分よりも悪い状況の人と比較する行為を「下方比較」といいます。

一番わかりやすいのが、自分よりも不幸な人がいることを知って「ホッとする」ようなものです。昔のドラマ「やまとなでしこ」で、松嶋菜々子さん扮する桜子さんが「よかったー!私より不幸な人がいたんだ!」と喜ぶ台詞があったと記憶しています。

逆に、自己向上動機に基づいて自分より良い状態の人との比較をする行為を「上方比較」といいます。スポーツや音楽などで、自分より上手にプレーしたり演奏できたりする先人を見て「自分も頑張ろう」と感じるようなものです。

私が中学校に入って軟式テニス部に入部した時、上級生のプレーが神業のように感じました。県大会で大活躍する他校の一流選手を見て「頑張ってあのようなプレーができるようになりたい」と思ったものでした。

銀行員時代にテニスをやっていた頃は、有名プレーヤーと同じラケットを使ったり同じウエアを着たりしたものでした。いつの時代でもそうですが、自分自身で努力しようとしない怠惰な人は「下方比較」が大好きです。

努力している人間を無理やり「下におとしめて」自尊心を満足させようとする人たちもいます。

以前、某作家に対するあまりにも酷い悪口を、匿名のネット上で書きまくっていた人物がいました。あまりの酷さに業を煮やした作家が犯人を調べたら、同じ高校を卒業しただけで年齢も違えば面識もなかったそうです。「同じ高校の卒業生なのに、あいつは世の中で活躍している」ということが気に入らず、ネット上でおとしめて自尊心を満足させていたのでしょう。

嫉妬は人間の業のようなものなので、止めろと言っても止まらないでしょう。嫉妬して無理やり「下方比較」する時間があれば、「上方比較」をする方がはるかに生産的で、自分にとってプラスになります。

もっとも簡単な「上方比較」のやり方は、実在でもフィクションでもいいので、自分の理想像を決め「もしあの人だったら、どう行動するだろう?」という問いかけをすることでしょう。

「まんが道」(藤子不二雄A)に極めて示唆に富むエピソードが描かれていました。

漫画家を志す2人の高校生(後の藤子不二雄)が、当時人気絶頂の手塚治虫宅を訪ねた時のことです。
「来るべき世界」という単行本の生原稿を編集者に見せてもらったところ、1000ページあったそうです。

出版された単行本の「来るべき世界」は400ページなので、(彼らにとって神様のような)手塚治虫が400ページの作品をつくるために600ページを無駄にしていたのです。全て手書き原稿の時代だったので、その努力は半端ではありません。

これを見た二人は、自分たちの努力の足らなさを深く反省しました。彼らは、「手塚先生だったらどうするだろう」と考えるようになりました。

百田尚樹氏は「雑談力」で、作家になるにはインプットが重要で100インプットしたうちの3くらいがモノになればいいという趣旨のことを書いています。
村上春樹氏も、1ダースの鉛筆がダメになるくらい何度も校正に校正を重ねるそうです。野口悠紀雄氏は、「(書籍化するのに)2、3度の校正で済ませるとは信じ難い」という趣旨のことを書いています。

素晴らしい成果を上げる人たちは、人並み以上の努力を重ねているのです。
こういう先人たちの話を知ると、つまらない「下方比較」をしている暇などなくなってしまいまいませんか?

「村上春樹だったらどうするだろう?」と自分に問いかければ、「人を貶めている暇があればもう一回り原稿を校正するだろう」という答えが返ってくるでしょう。

受験手帳[改訂版]
荘司 雅彦
PHP研究所
2013-01-23

編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2018年2月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。