石破茂氏が、2項維持案に賛成する意向だ、と報じられた。
言うまでもなく、石破氏の改憲案は9条「2項削除」案として知られてきた。そのため、2項維持案に賛成する意向、がニュースとして報じられたのであろう。しかし石破氏は、党決定には従うという立場をとっているだけで、ご自身の意見として2項削除論を放棄しているわけではない。
石破私案では、自衛隊の活動目的や文民統制に関する追加条項が提案されている。現在の9条2項は、自衛隊の活動の足かせになるので削除するべきだ、というのが2項削除案の趣旨であろう。
ただし実は、別の言い方をすれば、条項の追加をする点では、安倍首相提案の2項維持案と石破案は、同一線上にあるとも言える。
安倍案が「自衛隊の存在」の合憲性を確証する改憲案だとすれば、石破案は「自衛隊の活動」範囲の合憲性も確証する改憲案だと言えよう。
石破氏は、2012年の自民党総裁選において、地方票で一位になり、国会議員による決選投票でも僅差で惜敗した実力者である。その石破氏が、首相提案に対抗する案を持っているということで、これまでマスコミの大きな注目を集めてきた。
ご本人も、2項を削除する必要性を国民に問うか問わないかの点で、ご自身の案と首相案とが大きく異なっているということを、強調している。
だが、だからといって、両者の案の内容が、本当に全く正反対を向いている、ということではない。国民に問うか問わないかの違いとは、改憲の程度の違いであり、方向性の違いではないと言える。
安倍首相提案の改憲案は、「自衛隊の存在」の合憲性を明確にする点に特化するものになるようだ。しかし残念ながら、確かに、自衛隊という名称の組織が合憲であることが確証されたとしても、自衛隊が行っている活動が合憲であるかについては、依然として争いが続くだろう。
安倍案の成立は、おそらくほぼ間違いなく、次なる改憲の必要性に関する議論に引き継がれる。
私に言わせれば、外交安全保障に関する憲法の規定が、国際法の規定との関係を曖昧にする限り、絶対に曖昧さは残る。解決策は、憲法と国際法が調和するように憲法解釈を確定させること、しかない。
もちろん日本の憲法学の通説は、「憲法優位説」を唱え、国際法を無視するものだ。つまり憲法学通説に従う限り、外交安全保障分野で、日本は、永遠に国際社会で自由に活躍できない、ということである。
安倍案にしたがって「自衛隊の存在」の合憲性が明確になっても、依然として、憲法学者は、自衛隊はこれをやってはダメ、あれもやってはダメ、と言い続けるだろう。そして数十万人の司法試験・公務員試験受験者たちが、毎年毎年、大学法学部や資格試験予備校で、そのような学説を繰り返し唱和させられ続ける状況も続く。
そんなことになるくらいなら、「自衛隊の活動」の合憲性も、あわせて明確にしたほうがいい、という石破案の主張は、魅力的だ。不毛な論争を防いで国政の停滞を避けることができるという意味で、魅力的だ。なんといっても「活動の合憲性」を明確にしなければ、「存在の合憲性」を明確にしても、意味が乏しいという示唆は、論理的である。
ただし現下の政治情勢では、この3月に石破案が自民党案となる見込みはあるわけではない。仮に安倍案と石破案の違いが「程度」の問題であるならば、石破氏が代替案を示しながら党決定に従いつつ、さらに主張を続けることに、大きな矛盾はない。
自民党という政権党の中に有力な首相候補が複数いることは、良いことであろう。それなりの競争があるのは、むしろ健全である。マスコミがそこに注目するのも、自然なことではあるだろう。だが政争が政策論を凌駕するような事態は、望ましくない。この3月で、世界の終わりが訪れるわけではない。
自民党の青山繁晴氏のグループは、安倍案にそって2項維持を認めながら、「自衛権の発動を妨げない」という3項の追加する案を出している。実は青山案は、石破氏が関わった自民党憲法改正案の一部だけを憲法に挿入する案である。したがって青山案は、安倍案と石破案の中間に位置し、両者が同一線上にあることを示す案だとも言えるだろう。
鍵となるのは、石破氏が、憲法学「通説」を相対化することができるかどうか、であろう。安倍首相は、憲法学に挑戦する目的で、自衛隊の合憲性を明確にする3項を追加したい意向を表明した。それに対して、石破氏の理解は、2項がある限り3項を入れても意味が乏しい、という主張だ。つまり石破氏の立場は、2項の理解については、憲法学通説そのままなのである。
中学生が読んでもわかるものにするためには、2項がない方がいい、という石破氏の主張は、全くその通りだと思う。だがそれは、単なる読み易さの問題だ。憲法学通説が絶対真理である、ということを意味しない。石破氏が、憲法学通説から解放されるかどうかが、ポイントである。
たとえば、石破氏は、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」という文章を、憲法学通説にしたがって、非武装中立論を唱えることが規定されている文章であるかのように解釈する。しかし果たしてアメリカ人が起草した日本国憲法の前文は、本当に、北朝鮮の善意を信じ、日米同盟を否定するために書かれたものなのか。
歴史的な根拠をふまえ、憲法全体の趣旨を見れば、そうではないことははっきりしている。「平和愛好国家(peace-loving peoples)」とは、アメリカが主導した「大西洋憲章」や「国際連合憲章」において、アメリカが自分たちを指すために使用していた概念だ。それらが成立した後の1946年に、日本国憲法が起草された。日米安全保障条約でも、同じロジックが用いられた。
(日米安全保障条約)第一条 締約国は、国際連合憲章に定めるところに従い、それぞれが関係することのある国際紛争を平和的手段によつて国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決し、並びにそれぞれの国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むことを約束する。締約国は、他の平和愛好国(peace-loving countries)と協同して、国際の平和及び安全を維持する国際連合の任務が一層効果的に遂行されるように国際連合を強化することに努力する。
アメリカ人が書いたものを曲解し、アメリカを否定するための道具としてきたのは、憲法学通説の陰謀の所産であり、憲法典及びその他の規範文書に書いてあることではない。
ある弁護士の方が、「日本国憲法が希求している目的が『正義と秩序を基調とする国際平和』だ、などという議論はこれまで一度も聞いたことがない。」などと書いているのを見て、ビックリした。
これは憲法9条の文言の引用である。この弁護士の方は9条を読んだことがないのだろうか。日本の司法試験は、憲法典を読まず、ただ憲法学の基本書だけを唱和して対策を練るものなのか。あるいは憲法学の基本書で目的だと書かれていなければ、憲法典に何が書いてあろうとも、そんなことは知ったことではない、というのが、日本の司法試験合格者の世界観なのか。深刻な事態だと言わざるを得ない。
日本も、アメリカも、60年以上にわたり、北朝鮮ではなく、自分たちこそが、「平和愛好国家」であるという前提で、安全保障政策を構築してきた。憲法学通説に固執し、司法試験受験者に同情するあまり、現実に積み重ねられてきた実態のほうを否定してしまう必要はない。
国連憲章を信じ、国連安保理決議にしたがって、粛々と制裁を実行し、北朝鮮に核放棄を求めることが、国連憲章と日本国憲法にそった行動だ。
司法試験合格者への同情はいらない。憲法学通説を捨て去ろう。そうすれば、3項以降の追加条項によって、2項の意味を憲法学通説にしたがって解釈する必要性がないことだけが確定する。
9条2項を憲法学通説の桎梏から解放することだけをすれば、3項追加は2項維持と容易に両立するのである。
ポイントは、石破氏が、憲法学通説を相対化できるかどうか、である。憲法典を読まず、過去の憲法学の基本書だけを絶対視する「法律家」たちの態度を相対化できるか、である。それができれば、安倍案にそった改憲案が実現しても、石破案が否定されなくなる。それで安倍案と石破案は一つの線の上に並んでいる、という前提が生まれ、3月以降の議論も進んでいくことになるだろう。
編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2018年2月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。