臨済宗大本山円覚寺の横田南嶺管長は「心を鍛える5つの教え」として、①「外の世界のさまざまな物事に心を奪われるな」、②「外の世界のさまざまな物事に貪り拘るな」、③「常に自分のやっていることに心を集中させよ」、④「心が心によって見るもの、聞くものの広さを持て」、⑤「勇猛果敢な志、気持ちという者を失うな」、ということを言われているようです。此の①~③は特段の指摘を要さぬと思われるため、以下④と⑤につき私流の解釈を簡潔に述べておきます。
先ず「心が心によって見るもの、聞くものの広さを持て」とは、「様々な事柄を斟酌しながら相手の心を読んで行け」と言い換えられるのではないかと思います。心というものは視・聴・嗅・味・触の感覚、所謂五感である意味捉えられないものを捉え、物事を推し量って行くわけです。何ら表情に出さない相手が何を考えているかを捉えるに、それは相手の心の動きを見て行くしかないのです。
例えば曹洞宗開祖の道元禅師は、相手に気を利かせられない弟子には免許皆伝を与えず、それが出来る弟弟子の懐奘(えじょう)には先んじて伝授しました。兄弟子の義价(ぎかい)には、老婆心が足りないと言われたそうです。老婆心とは御節介ではなく、心配りのことです。昨年の流行語大賞の一つ、「忖度(そんたく)」ではありません。もっと深い意味があるのです。相手の顔を見ずして相手の悲しみを認識し、自分も同じ境地に入ってその悲しみと同レベルに達し、相手を如何にして慰めて行くかということではないでしょうか。
次に「勇猛果敢な志、気持ちという者を失うな」ですが、此の「志、気持ち」は「胆識(たんしき)」という言葉がより適当ではないかと思います。拙著『君子を目指せ小人になるな』(致知出版社)にも書いておいた通り、「知識」「見識」「胆識」の定義に関しては、夫々「物事を知っているという状況」「善悪の判断ができるようになった状態」「実行力を伴った見識のこと」であります。
志が高ければ高い程それを達成するため、より厳しく自分を律し、努力して行かねばなりません。上記した「勇猛果敢」の類とは少し違った勇気ある実行力を有した人でなければ、本当の意味で志を成し遂げることは出来ないのです。王陽明の『伝習録』の中に「知は行の始めなり。行は知の成るなり」という言葉がありますが、つまりは「見識を胆識にまで高めろ」ということではないでしょうか。
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