人生とは違和感と感動の繰り返しである。しかし、日本に生まれ育ち43年になるが、日々、違和感の連続である。この猖獗した時代に、烈々たる決意に燃えて、重大な意志をこめて、この檄を叩きつける。
3月2日の参議院予算委員会において、共産党の書記長小池晃氏が、高度プロフェッショナル制度について安倍晋三首相に質問した。安倍首相はこう回答したという。「1075万円の方々ということになれば、(会社を相手に)相当の交渉力がある」と。3月3日付の朝日新聞朝刊などが伝えている。
ちょうど私は、如水会(一橋大学のOB・OG組織)が主催したシリーズセミナーに、2月27日、甘利明が登壇した際に講演を聴いていたのだが、その席で、彼も同趣旨の発言をしていた。1月12日に加藤厚労省とBSフジ「プライムニュース」で共演した際もだ。「1075万円を超える人は、会社を相手に相当の交渉力がある」というのは、自民党議員の共通認識のようだ。
労働者のことなど歯牙にもかけぬ傲慢な言動である。珍妙きわまりない情勢認識が開陳されている。言うまでもなく、笑止千万の妄言だ。その根拠は何なのか?「1075万円の方々」は「必ず」会社との交渉力があるのか?その論拠を明確に示して頂きたい。
このようなことを言うと、また左翼が噛み付いているとネット民は思うことだろう。国会においても、自民党の渡辺某のように「野党は誹謗中傷クラス」などと批判する者がいる。しかし、私は離党した元自民党議員の豊田真由子ばりにこう叫びたい。「違うだろーっ!」と。
これを単に与党と野党や、イデオロギー、スタンスの違いに矮小化してはいけない。例の裁量労働制の件をめぐっても、おおよそ、政策の意思決定としては不適切なデータがまかり通っていたことが明らかになった。この手のことを「野党や左派が面倒くさいことを言う」でスルーしてはいけないのである。問われているのは、右か左か、与党か野党かではなく、そこにファクト、データ、ロジックがあるかどうかである。
もちろん、経験則としては「1075万円の方々は交渉力がある」と言いたくなるだろう。ただ、職位・職種・職務などが「無限定」である日本の雇用システムにおいては、この件は客観的には成立しない。最近では部門・職種別の採用などはあるし、専門職なども存在する。ただ、どこに「1075万円の方々は交渉力がある」と明文化されているのだろうか。
高度プロフェッショナル制度は、野党は「スーパー裁量労働制」と呼んでいるが、完全に間違いではないものの、そもそも概念の違うものである。だからこそ与党には、首相の言葉を借りるならば「丁寧に」「真摯に」検討し説明することを期待するのは、当然だ。
やや揚げ足とりになるが、そしてこれまでの論から飛躍するが、「1075万円の方々は交渉力がある」発言は逆に言うならば、それ未満の人たちは「交渉力が弱い(または、ない)」と言っているようにも聞こえる。労働者の交渉力に本来、年収は関係ないはずだ。これを、年収を論拠にしようとしている点がそもそもおかしいのだ。
野党とメディアはこの発言の論拠について、徹底的に問いただすべきである。裁量労働制を取り下げたのは、データ問題だった。与党は怒りと反発の直撃をうけて顔面蒼白だろうが、今回はどのようなデータ、ファクトを元に主張しているのかも確認しておきたい。社会からの(という名の経済界からの)要請だとするならば、単にコスト削減以外の理由でなぜ必要なのかを具体的に説明して頂きたい。単なるコスト削減のためだとしたならば、資本主義的汚濁そのものである。
このような普遍性を装った美しい言葉に騙されてはならない。与党は、我が国を「世界一ビジネスがしやすい国」という俗耳に馴染むスローガンのもと、労働者定額(あるいは低額)使い放題社会に雄飛させることに血眼になっているようにも見える。
昨日、全国紙の編集委員とメールのやり取りをしていたが、空気感が都議選の頃に似ているように思う。与党の(いや、自民党の)綻び、慢心が散見されたころである。国民の間に徐々に、不満と不信が鬱積していないか。
野党とメディアは、この「働き方改革」の真相を、完膚なきまでに暴き出すとともに、真の「一億総安心労働社会」を打ち立てるための策を検討するべく、重大な決意を燃えたたせて決起せよ。
最新作をよろしく。娘のおむつ代がかかっている。