中国の憲法修正に関するもう一つの解釈③習氏の父の人徳から読み解く

幼い頃の習近平氏(左)と父、習仲勲氏(Wikipedia:編集部)

「習近平は、恣意的に憲法を改めたのではなく、逆に法と実体との一致を追求したのではないか」

こう話すと、何人かの学生がうなづいた。多くの学生は、政治には無関心で、他人ごとのように感じている。それより目の前に差し迫った就職や勉学のことで頭がいっぱいだ。これは日々学生と接している私の肌感覚である。ただ政治にはまったく無関心であっても、中国人のDNAとして、独特のバランス感覚は持っている。学生たちのうなづきに、私はそんな深い文化を感じる。

習近平氏は反腐敗キャンペーンを通じ、法制化、制度化を繰り返し強調してきた。毛沢東時代のように、大衆を動員し、公開裁判で政敵陥れるような道は選んでいない。むしろ周永康元常務委員や薄熙来元重慶市党委書記ら、反対派がクーデターを起こしたと断罪している。形の上ではあっても、法制化にこだわっていることは注目すべきである。

1982年憲法の成立を宣言した習近平の父、習仲勲は、88年に及ぶ生涯のうち三分の一は政治闘争に巻き込まれ、過酷な不遇を経験した。毛沢東が仕掛けた階級闘争の嵐の中、冤罪をでっち上げられ、文化大革命以前の1962年から16年間、北京での軟禁生活や河南省洛陽での工場労働を強いられたほか、ふるさとの陝西省で十数回にわたり見せしめの街頭引き回しをされた。習仲勲は晩年、「当時思っていたのは、ただ私を殺さないでくれさえすればいいということだけだったよ」と述懐した。

習近平を支える人脈の多くは、習仲勲の人徳に負うところが大きい。その人徳は、習仲勲が残した次の一言に凝縮されている。

「私はこれまで人を打倒したことがない」

共産党内のすさまじい政治闘争の中で、多くは仲間を裏切り、政敵を攻撃する自己防衛手段を免れなかった。復活した後、今度は自分が迫害する側に回った事例は枚挙にいとまがない。だが、習仲勲は人を裏切ることなく、迫害への恨みや報復に走ることもなかった。多くの指導者は「何かをした」ことによってその名を歴史に残すが、「しなかった」ことが語り継がれる指導者は希有である。

不可避的に権力闘争の様相を帯びる反腐敗キャンペーンにおいて、習近平が「法」にこだわるのも、報復の連鎖が繰り返されることへの警戒があることは間違いない。習近平が党内の会議において、周永康らによる自分への暗殺計画まで指摘し、反対勢力を根絶しようとしているのはその証だ。報復の連鎖を断ち切ることは、父親が残した貴重な家訓であり、この一線を守られなければ、革命世代の二代目「紅二代」の彼に対する支持も一気に瓦解していく。

繰り返すが、安直に「毛沢東時代への回帰」という問題設定で憲法修正を議論しても、真相は見えてこない。習近平がいくら毛沢東語録を読んで育った世代とはいえ、父親が受けた仕打ちを忘れるわけはない。同じ道をたどることはあり得ない。しかも時代背景が違い過ぎる。多くの若者が、ファイヤーウォールを越えるソフトを駆使してネット規制をかいくぐり、年間1億人以上の中国人が海外旅行をする時代に、完全な封鎖体制を敷いた毛沢東時代との比較を持ち出すのはナンセンスである。

金さえあればいくらでも合法的に海外移民ができ、実際、都市部では多くの人々がそうしている。海外との関係が犯罪となり、金持ちが逃げるように国を去った毛沢東時代とは比べようがない。憲法修正案の中に、国際協調関係が強調され、「相互利益享受の開放戦略」「人類の運命共同体」が新たに加えられていることにも目を配るべきである。

実は、最も私の目を引いた憲法修正案は、任期撤廃ではなく、第一条に加えられた表現だ。

「中国共産党の指導は中国の特色を持つ社会主義の最も本質的な特徴である」

これまで「共産党」は憲法序言(前文)にしか登場していなかった。「共産党の指導」が初めて条文の中に明示されたのだ。(続)


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2018年3月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。