中国の憲法修正に関するもう一つの解釈⑥根深く存在する抵抗勢力

憲法修正案を可決した全人代(人民日報サイトより:編集部)

11日、全国人民代表大会で憲法修正案が可決した。海外メディアの報道が、わかりやすい国家主席の任期制限撤廃に集中したことは想像に難くないが、注目すべき点が多々あることは、すでに述べた通りである。

今、授業で中国の学生たちに現在の関心事は何かと聞くと、必ず「修憲(憲法修正)」と答えが返ってくる。通常であれば全人代も党大会にも関心を持たず、憲法を読んだことさえない若者が、判で押したように「修憲」と口にする。一種のフィルター・バブル状態にあることは間違いない。一つはネット規制を越え、海外メディアに触れているせいであるし、あと一つ考えられるのは、国内の反対勢力が世論操作をしている可能性だ。

この点、海外メディアの報道には矛盾がある。一方では習近平政権で強化されるネット規制を伝え、もう一方では、ネットで任期制限撤廃に対し「独裁」や「政治野心」への不満があふれていることを報じる。反対意見が書かれているのだとしたら、言論の自由が保障されているということではないのか。それは厳格なネット規制と矛盾している。

実際、ネット上であらゆる言論を封じ込めるのは不可能なのだ。インターネット自体が、中央集権システムとは全く異なる理念のもとに発展してきたことを思えば、それは容易に理解できる。インターネットの真の問題は、人ではなく、人の手を離れたアルゴリズムによって支配されることのリスクである。フィルター・バブルも、ポスト・トゥルース(post-truth)も、人がアルゴリズムに振り回されている現状を物語る。ある特定の人物を悪人に仕立て、責めたてて解決できる問題ではない。

中国の憲法修正をめぐる世論について言えば、私は、ある程度の勢力がなければ、これほど広範な反対意見が流布することはないと考える。授業時間に議論しようとしても、学生たちは「敏感な問題なので」としり込みしてしまうが、彼ら、彼女らの意見が疑問や批判は傾いているのはほぼ同じなのだ。憲法修正に関する賛成は2958票、反対が2票、棄権が3票、と表面的には圧倒的多数の可決だが、抵抗勢力の力は根深く存在している。過剰な習近平賛美もまた、個人崇拝への警戒を刺激する「ほめ殺し」の効果を持っていることにも注目しなくてはならない。

このことがまさに、習近平が簡単には権力を手放すことができない理由である。前例のない広範な反腐敗キャンペーンによって、短期間で権力を掌握したが、この間、政権転覆や暗殺計画までが発覚し、根強い抵抗勢力の反撃にも遭ってきた。だからうかつに後継者も決められない。引退が見えてきた時点で、必ずや反攻の動きが生ずる。下手をすれば墓を暴かれるかも知れない。片時も気を抜けない状態なのだ。三国志を思わせるような激烈な権力闘争は、まだ続いている。

陝西省富平県にある習近平の父、習仲勲の陵墓は、中国国民の一般参観は可能だが、武装警察によって厳重な警備が敷かれている。かつて天安門事件で趙紫陽が失脚した際、それに先駆けて趙紫陽の父親の墓が何者かによって荒らされた前例があるからだ。よく言えばガラス張り、悪く言えば底の浅い日本の政治と比べ、中国の政治闘争のすさまじさは全く次元が異なる。違った尺度で測らなければならない

12日、全人代で憲法修正に関する記者会見が行われ、修正案の事務作業を務めた全人代法制工作委員会主任、沈春耀氏が応対した。

沈氏は、最高指導者が党と軍、国家のトップを兼ねる「三位一体」は「大国として必要であるばかりでなく、ふさわしい」と述べた。毛沢東に権力が集中し、個人崇拝の弊害を生んだ反省として、1982年憲法の任期2期制限条項が誕生した経緯をみれば、非常に疑問のある見解だ。だが、すでに触れたように、実態をみれば、必ずしもそうでない。

82年憲法ができた後も、鄧小平は肩書にはかかわらず生涯、最高実力者として実質的な権力を握り続けた。いきなり次世代に権力を移譲すれば、不要な政治闘争が起き、党内が分裂する危険がある、と判断したためだ。その根拠の是非はともかく、党支配の安定こそが、みなの共通認識であることは間違いない。党が憲法制定を指導するのであって、憲法に縛られ、党の不安定を招くようなことはあってはならない。これが掟なのだ。個人の権力に対する執着だけを見ていては、歴史の像は浮かんでこない。

今回の憲法修正もまた、同じロジックである。過酷な政治闘争の中、最高指導者の権力基盤を強化し、党の存続と安定を図ることが最大の眼目だ。

記者会見で沈氏が、「1993年以降、三位一体は成功した、有効で、非常に重要な体制だ」と述べたのも正しくない。93年は、党総書記と中央軍事委主席を務めた江沢民が国家主席に就任し、「三位一体」を実現した年だ。だが、江沢民は総書記と国家主席を胡錦濤に譲った後も、中央軍事委主席の椅子は渡さずに実質的な権力を握り、胡錦濤に対し、最高指導者として党の「核心」との呼称を与えなかった。三位一体はその時の都合でどうにでも改変される。問題は、党の安定という金科玉条の解釈権をだれが握るのか、という点なのだ。

世界が注目する公式の会見で、堂々と偽りの歴史を語る全人代の責任者も問題だが、それを見抜くことのできないメディアもまた情けない。フィルター・バブルの影響で、関心が「任期制限の撤廃=独裁=毛沢東時代の復活」というステレオタイプにしか向かっていない。

メディアがしばしば引用する中国の知識人についても、実は多種多様な意見があるが、メディアの編集方針に沿った内容しか報じられない。では習近平自身はどう思っているのか。そして、ネットにもメディアにも登場しない人たち、つまり農民はどう思っているのか。これを理解しないと、全体は見えてこない。次回のブログでこのテーマを引き継ぎ、最終回とする。

(続)


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2018年3月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。