日本では財務省の改ざん文書問題で持ち切りだと聞く。まだ真相はわかっていないうえ、報道には外国語への翻訳が難しい「忖度」がたびたび引用されているので、いかに中国の学生たちにこの事件を説明したらよいのか、戸惑っている。日本語のネットで「超エリート集団の財務省ともあろうものが…」という表現を目にしたが、違和感を持った。試験による選抜を経て、立身出世にまい進する人たちが、とことん体制に順応するのは当たり前だ。
かつては政治家が官僚を巧みに操り、大きな政治課題を処理した。日中交流正常化はその最たるものだ。人心収攬の術に秀でた政治家たちは、責任を自己が引き受ける一方、立身出世の動機づけによって官僚の能力をフルに引き出した。官僚は私人として仕事を失うことができないので、免責さえされれば、いかんなく自己が信ずる「公共」「国家」のため、官費によって身につけた知識と知恵を提供した。それが官僚の生きがいでもあった。
だが昨今の政治家と官僚の関係はそうでもないらしい。政治家は官僚を使うだけ使った挙句、あとは知らん顔で責任だけを押し付ける。大臣は辞めても、議員の身分は残るはずだが、自分の肩書に執着して、「公共」の心がない。これでは官僚がやりがいをもって仕事をしようとする「公共」の精神は生まれない。裏返してみれば、財務省だからこそ、最後まで政治家に恋々としてすり寄ったとも言える。
「公共」をカッコつきで書いたのには、官僚の考える中身と、我々が求めるべき理想が必ずしも一致しないと思うからだ。
カントが提起した「理性の私的使用と公共的使用」という概念がある。
たとえば、財務省の役人が、いわゆる「組織の利益」あるいは「公共の利益」(実際はある特定個人の利益であることがしばしばだが)を守るため上意下達のルールに従い、それが役人の務めなのだと納得して判断し、行動したとする。この場合、あたかも官庁が代表するところの「公」を実現したかのように見えるが、しょせんは個人の利害から発した判断、行為、つまり「理性の私的使用」に過ぎない。
そうではなく、官庁=公共ではなく、個人が利害関係に基づいて所属する組織から離れ、より大きな社会の一員として、全体の幸福を考え、判断し、行動することこそが「理性の公共的使用」にあたる、とする考え方だ。
「ノー」と言える自由が保障されていなければ、公共は存在しない。むしろ、異なる意見を戦わせる論を通じ、初めて公共空間における世論が形成されるのであって、上意下達の非民主的システムからは、全体主義しか生まれない。政治家と官僚との、緊張をはらんだ良好な関係は、公共空間を受け入れる余地を持っていたが、片務的で私的な都合が優先する「忖度」の関係には、自由な議論もなく、無責任な政治しか生まれない。非民主性と無責任性のうえに、全体主義が育つ危険をはらんでいる。
メディアは官僚体質を批判するだろうが、そもそもメディア自体が、自由な議論とは無縁で、軍隊式の統制が敷かれていることに対する反省は乏しい。悪者を見つけ出し、それを退治すれば社会が進歩するのだと、大衆をだましている。本当の矛盾に目を向けない限り、対症療法でその場をしのぎ、病巣をさらに深く温存させているに過ぎない。自己を正しく認識するところから、他者との建設的な対話に基づくコミュニケーションが生まれる。それを欠けば、聞き手を持たない、一方的な言い合いに終わるしかない。劇が幕を閉じれば、後には何も残らない。
日本ではまた、名古屋市立八王子中学校が前川喜平・前文部科学次官を授業に招いた際、文科省が学校側に報告を求めていたことが問題化した。非常にお粗末だと思うが、「忖度」文化を考えれば、火の粉が飛んでくるかもしれない事柄に対し、役人が必死に情報収集をする自己保身の発想は想像に難くない。ここにも「公共」の場はなく、どこまでいっても「理性の私的使用」しかない。財務省もどこの省庁も、そして巨大メディアも、「公」を差し置いて「私」に奔走している実態にはさして違いはないのだ。
前川氏の勇気ある言動、真相解明に果たした役割は正当に評価したいが、「役所を辞めれば、自由にものが言えるようになる」との発言はいただけない。組織のトップに上り詰め、定年間際まで勤め上げた者が言っても説得力はない。「定年までは我慢して出世を目指し、余生は本音を語ればよい」と高をくくっているに等しく、やはり公共性とは全く無縁な、「理性の私的使用」に基づいた無責任発言である。
重箱の隅をつつくような、いわゆる精密で実証的な真相解明が、大きな問題を見逃す口実とならないことを望む。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2018年3月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。