佐川氏証人喚問後も懲りない野党の叫びを分析する

藤原 かずえ

2018年3月27日に行われた佐川宣寿元理財局長の証人喚問では、行政文書の書き換えが財務省理財局の内部では行われたという証言が得られましたが、野党やマスメディアはこの証言を完全否定して「より疑惑が深まった」と口を揃えました。佐川氏の証言は確かに物証を伴わないものではありますが、偽証をすると罪に問われる状況下での証言であることを考えれば、完全否定されるような証言でもないことは明らかです。その一方で、野党やマスメディアは、籠池泰典森友学園元理事長の証言については信憑性が高いとして、様々な憶測を展開する上での前提としています。なぜ、同じ国会での証言であるのに一方を思考停止に否定して一方を思考停止に肯定するかと言えば、政権打倒という野党やマスメディアの論調に対して、佐川証言は不都合であり、籠池証言は好都合であるという【確証バイアス confirmation bias】以外の理由は見当たりません。そしてこれらの状況から推察するに、野党やマスメディアのこの問題に関するプライオリティは真相究明ではなく政権打倒にあるものと考えられます。

さて、このような真相究明よりも政権打倒を選好する野党のスタンスを如実に観察できるのが、2018年3月29日に開催された公文書改竄と森友問題の真相究明を求める「野党合同院内集会」という決起集会でした。この集会において、野党六党の代表者は文書書き換え問題を追及することで安倍政権を内閣総辞職あるいは解散総選挙に追い込むことを宣言しました。そもそも真相が確定されていない事案であるにも拘わらず政権打倒を目標にすること自体が極めて矛盾していると言えます。野党各党の代表者は、そのような矛盾に一切触れることなく、言いたい放題に不合理な現状認識を語り、出席した大勢の議員もその認識に「そうだ!」「そうだ!」という叫びで同調しました。以下、各党代表者の発言の要点を引用しながらしっかりと分析してみたいと思います。

[公文書改竄と森友問題の真相究明を求める野党合同院内集会](民進党公式動画)

立憲民主党・福山哲郎幹事長
安倍総理が「真相究明をまだしなければいけない」と言うのなら、「ここからは国民の判断であり、国会の判断である」というなら、(1)徹底的に真相究明を国会の場でやるように政府与党にしっかりと総理自身が指示を出して、与党は徹底的に予算の集中審議を開くこと、要求された資料については、即刻提出をすることを強く求めていきたいと考える。(2)政府与党が「これで森友学園問題を幕引き」などということは絶対に我々許しようがない。

(1) 文書改竄問題の真相究明を、調査・検証能力が高く事案を政治利用しない第三者が国会特別委員会で行うことは結実的であり政治の理不尽な停滞を回避することができると考えられますが、調査・検証能力が低く事案を政治利用する野党国会議員が国会予算委員会で行うことは結実的でなく政治を理不尽に停滞させるだけであることがこれまでのモリカケ国会審議で明らかです。「予算の集中審議」をさりげなく言説に組み入れた福山議員は予算委員会での茶番審議を再び繰り返すことを主張しています。

(2) 野党は「幕引き」を危惧する発言を繰り返していますが、実際には司法の捜査が進行中であるため、事案はまったく「幕引き」されていません。「幕引き」という言葉はマスメディアも多用する【負の印象表現 negative image word】であり、根拠なく審議を長引かせる目的で大衆の【ルサンチマン ressentiment】を刺激して不必要な警戒感を与える常套文句になりました。なお、福山議員は、証人喚問によって「疑惑を深めた」と主張していますが、もしもそうであるのならば、
証人喚問を求めた野党はその不始末を国民に謝罪する必要があります。

民進党・増子輝彦幹事長
(3)安倍総理の夫人の証人喚問は避けられない事実だ。責任は麻生氏に取ってもらわなければならない。行政のトップである安倍総理にも責任を取ってもらう。(4)内閣総辞職までしっかりと実現するために頑張っていこうではないか。

(3) いつまで経っても国会が空転する最大の原因は、野党が証拠のない「認識」を「事実」と混同して追及していることに他なりません。「安倍総理の夫人の証人喚問は避けられない事実だ。」という意味不明な言葉は「安倍総理の夫人の証人喚問は避けられない」という増子議員の勝手な認識に「事実」という言葉を付け加えたものに過ぎません。

(4) 証拠なく追及し根拠なく責任を問うという野党の理不尽な行為は、法治主義を逸脱するものであり、問題の回避可能性を検証することなしに思考停止でトップに重い結果責任を要求するのは、切腹を潔いとした日本社会の悪しき慣習です。このような乱暴な目標を掲げていることは、文書改竄問題を単なる政争の道具にしていることの証左です。

希望の党・古川元久幹事長
(5)社長が知らなくてもこんな問題を起こしていたら当然その責任をトップがとる。それが民間では当たり前だ。(6)問題を引き起こす原因をトップが作っておきながら一部の官僚の責任にしてしまおうとする安倍政権の姿勢は民間では考えられない。こんな民間では考えられないような責任を下のものに押し付ける。そして自分達は他人事のようにふるまっている。こうした状況はまさに国家の危機だ。野党の皆さんと安倍政権を総辞職・解散に追い込むために一緒に頑張ってい行く

(5) 公務員を構成員とする独立組織を国民の負託を受けて統制する政治家と、自らも構成員である営利組織を組織の指名を受けて管理する民間企業のトップとを同一視する不見識な見解です。大蔵省を辞めて国会議員になった古川議員が「民間では」と何度も繰り返すことには大きな違和感があります(笑)

(6) 問題を引き起こした原因というのは「私が関わっていたら辞める」という発言でしょうか。これを官僚の忖度の原因とするならば、その発言を異常なまでに問題視して忖度を促進させた野党の方がよっぽど問題発生に対する寄与度は高かったと言えます。ちなみに、以前、原発事故を引き起こす明確な誘因を作っておきながら民間企業のトップの責任にしてしまった菅政権というのがありましたが、この時に古川議員は、首相の地位にしがみついていた菅首相を支えた民主党の幹部でした。

日本共産党・小池晃書記局長
安倍総理に全容の解明のためには何が必要か聞いた。安倍総理は「誰がどのように改竄を指示し、誰がどのように書き換えたのか、どういう意図で行われたのか」という事を明らかにすることだと言った。一方証人喚問で佐川氏は、「改竄についてどういう経緯で誰がどう具体的に指示をしたかという点について答えていないのでその点については明らかになっていない」と言った。(7)何も解明されなかったことを総理も佐川氏も認めているではないか。大体佐川氏は誰がどのような意図でどうして改竄したのかを一切語らず、自らの関与も認めていない。しかし首相は関与していない。首相夫人は関与していない。官房長官は関与していない。副長官も関与していない。官邸も関与していない。(8)何故そんなことが言えるのか。根本的な矛盾ではないか。これで納得しろと言われても誰も納得できないというのがこの間の政府の説明ではないか。疑惑の核心である昭恵夫人の証人喚問はどうしても必要だ。

(7) 小池議員は、佐川氏の証人喚問を要求した野党が「何も解明できなかった」ことを「何も解明されなかった」と言い換えて挙証責任の所在を政府側に転嫁しています。これは自らの論証の失敗を棚に上げて被追求側に【悪魔の証明】を求めているに過ぎません。

(8) 佐川氏が改竄意図・自らの関与について言及しなかったのは黙秘の権利を行使したまでであり、「改竄意図を知らない」とも「自らが関与していない」とも宣言していません。一方、なぜ首相他が関与していないと言ったのかは、そのような認識を佐川氏が持っているためであり、個人の責任で証言したことに他なりません。この一連の発言はまったく矛盾するものではありません。

自由党・玉木デニー幹事長
(9)参議院・衆議院での鋭い証人喚問の質問、本当に見事だった。見事だったからこそ、本人は50回以上も身の危険を感じて答えられなかったというのが本質ではないか。この森友問題についても、さらにひどい状況であろう加計問題についても、(10)我々は国民とともにしっかりと一致結束してさらに取り組んで行こう。

(9) 証人喚問で50回以上証人が質問に答えなかったのは、明らかに証人が答えなくてもよい質問を50回以上もしたというのが本質です。証人に黙秘権があることを十分に認識しておきながら、その黙秘権を行使させる無駄な質問を野党議員が証人喚問で繰り返したことは、いかに野党議員に追及能力が欠如しているかを示す証左です。

(10) 戦略がないにも拘らず証人喚問を求め続けた野党議員がまったく結果を得ることができなかったことは、ある意味で国民に対する背信行為であると考えます。低い政党支持率に変化がないことから考えても野党が国民とともにしっかりと一致結束することは絶望的であると考えられます。

社民党・照屋寛徳・国会対策委員長
(11)私は森友問題の文書改竄は明らかに安倍行政独裁政権による大きな国家犯罪だと考えている。したがって、財務省の一部の官僚の責任追及だけで終わらせては絶対にいけない。首謀者・共犯者は一杯いる。同時にこの文書改竄事件は我が国の民主主義と議会制民主主義を破壊する大きな事件だ。衆参予算委員会における証人喚問を私もテレビ中継で見ていた。(12)佐川証人はいつ何を目的で誰が指示をして文書を改竄したのか、まったく答えていない。しかも、答えた範囲で、(13)私の50年近い弁護士の直感で判断すると、すべて偽証の疑いが強い。それを証人喚問が終わったから幕引きをする。とんでもないことだ。昨日6党国会委員長会談で確認したように、安倍総理夫人・谷氏・今井氏・迫田氏、私達野党が結束をして真相解明のために引き続き証人喚問を求めて行こうではないか。

(11) 「安倍行政独裁政権による大きな国家犯罪だと考えている」という仮説は個人の勝手ですが、その仮説を支持する証拠が全くないにも拘らず、「したがって、財務省の一部の官僚の責任追及だけで終わらせては絶対にいけない」と結論付けるのは、結論が含まれた前提から結論を導く【先決問題要求 begging the question】の誤謬です。照屋議員はさらに「首謀者・共犯者は一杯いる」と断言し、いつのまにか「仮説」を「事実」に格上げしています。

(12) 佐川証人が「いつ何を目的で誰が指示をして文書を改竄したのか、まったく答えていない」のは、日本国憲法第38条で保障された黙秘権を行使した結果であり、この前提の上で佐川証人に答えさせられなかったのは追求側の責任に他なりません。このような人権軽視の発言はいわゆる「立憲主義」なるものに違反しています。

(13) 個人の経験を根拠に自説を肯定するのは【個人的経験に訴える論証 appeal to personal experience】、弁護士を根拠に自説を肯定するのは【権威に訴える論証 appeal to authority / ad verecundiam】、個人の直観を根拠に自説を肯定するのは【直観に訴える論証 appeal to intuition / truthiness】という誤謬です。個人の経験も権威も直観も証拠にはならず、このような論法は人民裁判で多用される人治主義的手法に他なりません。まさに軍靴の音が聞こえてきます。

希望の党・今井雅人国会対策委員長代理
私も証人喚問に立ったが、我々の質問には全部答えないのに、なぜか政府に対しては政府寄りのことをオープンで話す。これは事前に仕組まれた出来レースだと言わざるを得ない。(14)誰かが「佐川氏は嘘をつく時だけより断言する」と言っていた。まさにそういう感じを私は受けた。疑惑はさらに深まったと言わざるを得ない。一番の元となっている8億円の値引きの根拠が虚偽だったのではないかということが出てきている。このときの関係者、安倍昭恵氏・谷査恵子氏・迫田氏を含めてちゃんと国会に呼んで証人喚問して真実を明らかにする。そのために頑張っていきたいと思う。森友学園問題の真相を必ず究明するとともに安倍政権の退陣を実現する。そのために野党六党団結してガンバロー!ガンバロー!ガンバロー!

(14) 「佐川氏は偽証をすると罪に問われる」という従来からの認知に加えて、証人喚問で「佐川氏は財務省理財局の外部で改竄は行われていないと断言した」ことを認知した今井議員は、典型的な【認知的不協和 cognitive dissonance】に陥っています。この二つの認知から導かれることは、政権は改竄に関与していないという結論ですが、これは今井議員が考えるシナリオとは矛盾するものです。そこで、今井議員が、その矛盾を解消するためにとびついたのが「佐川氏は嘘をつくときだけより断言する」という極めて都合のよい認識であると言えます(笑)。そして、さらに矛盾を解消するために「疑惑はさらに深まった。安倍昭恵氏・谷査恵子氏・迫田氏を証人喚問する。」という認識に至っています。残念ながらこのような【認知的不協和】は、矛盾に突き当たるたびに発生し、それを解消するための新たな認識が創られ、論点を変容させながら問題がエンドレスに続いていくことになります。このような【認的不協和】のシークエンスこそが森友問題・加計問題の実体であると言えます。

以上、野党の言説を分析してきましたが、その勘違いに共通しているものが、「仮説」と「事実」の混同です。通常の正しい三段論法は次のような論証構造を持ちます。

[大前提] AならばBである(事実)
[小前提] CはAである
[結 論] CはBである

一方で野党やマスメディアの多くの言説は次のような論証構造を持っています。

[大前提] AならばBという認識である
[小前提] CはAである
[結 論] CはBである

この結論は明らかな誤りです。認識と事実を混合した場合、得られるのは「事実」ではなく、「仮説」に過ぎません。この仮説を立証することこそが野党やマスメディアのミッションであることは言うまでもありませんが、彼ら彼女らはそれを怠り、仮説をもって結論とし、証拠もなく政府に自白を強要していると言えます。

ここで、認識を含んだ「大前提」とは次のようなイディオムで構成されます。

「AならばBとしか考えられない」
「AならばBと考えざるを得ない」
「AならばBと言われても仕方がない」
「AならばBに違いない」
「AならばBに決まっている」
「AならばBのはずである」
「AならばBという感じがする」
「AならばBというのはありえない」
「AならばBのわけがない」
「AならばBとは到底思えない」
「AならばBとは信じられない」

例えば、今回の文書書き換え問題は当初次のように考えられていました。

[大前提] 頭がいい人間が文書を書き換えるはずがない
[小前提] 官僚は頭がいい人間である
[結 論] 官僚は文書を書き換えるはずがない

しかしながら現実には官僚が文書を書き換えたのは紛れもない事実であり、この[結論]は仮説に過ぎなかったと言えます。同じように、現在野党が主張している次のような三段論法の結論もまた仮説に過ぎません。

[大前提] 官僚が行政文書を書き換えるならば政治家の指示があるとしか考えられない
[小前提] 官僚が行政文書を書き換えた
[結 論] 政治家の指示があった

合理的な仮説を設定することは証拠を効率的に得るにあたって非常に重要なことですが、それを立証する責任がある野党が証拠もなく仮説を政府に叩きつけて政権に自白を迫っているだけでは、全く状況に変化はなく、国会は空転するばかりです。

この辺で「証終」とします(笑)