聖人の言は簡

北尾 吉孝

『酔古堂剣掃』(中国明代末の読書人・陸紹珩が生涯愛読してきた古典の中から会心の名言を収録した読書録)に、「神人の言は微。聖人の言は簡。賢人の言は明。愚人の言は多。小人の言は妄」という言葉が採録されています。

之は、「聖人よりも神に近い優れた人の言葉は機微、デリカシーがある。聖人の言葉は簡潔で洗練されている。賢人の言葉は明瞭である。それに比べて愚人は言葉数が多く、小人の言葉は出鱈目ばかりだ」といった意味になります。

逆の立場で考えてみますと、我々の心にグサッと突き刺さるのは大抵が、片言隻句という「ほんのちょっとした短い言葉」です。長ったらしい言葉が心の中に残り、その後時として自分の行動規範になったりして、自分を律する上で何か役立つといったことは殆どありません。

自分を励まし行動を促すような片言隻句をどれだけ持っているかにより、その人の人生は大きく変わって行くと思います。様々な体験の中で、それらの寸言を反芻する等して、日々の糧として行くのです。そうした片言隻句とは、正に冒頭挙げた微や簡であります。

例えば『論語』の「子路第十三の二十七」に孔子の言、「剛毅木訥(ごうきぼくとつ)、仁(じん)に近し」があります。此の僅か六漢字(剛毅木訥近仁)で、仁者というものがはっきりと分かります。之は、「意志が堅固である、果敢である、飾り気がない、慎重である、このような人は仁に近いところにいる」といった意味になります。

あるいは同じく『論語』にある孔子の言、「巧言令色、鮮(すく)なし仁」(陽貨第十七の十七)と一言聞けば、如何なる者が仁の心に欠けるかが、パッと頭の中に浮かんできます。之は、「口先が巧みで角のない表情をする者に、誠実な人間は殆どいない」といった意味になります。

私は、どういう人が信頼でき、どういう人が信頼できないかを、これ程明確に表している言葉は他に無いと思っています。聖人の言とは、正にそういうものなのです。人生の転機あるいは絶体絶命の危機を迎えた時、こうした片言隻句こそが、自分を励ましてくれたり物事を決断する上での指針となったりするでしょう。

また、もう少し違った見方をすれば、例えば我々凡人がスピーチを多勢の前でやるといった場合、私は、その人の職を問わず「要にして簡」、即ち必要な事柄全てを包含し簡潔に纏められているものが一番良いと思っています。

ダラダラダラダラと何か喋ってはいるけれど何が焦点か全く分からない、というような人は現に数多見受けられます。スピーチに限らず、要にして簡ということが、やはり非常に大事な要素だと思います。

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