木村草太教授の『自衛隊と憲法』の問題点⑤軍事権学説による戦前の肯定

篠田 英朗

木村氏新刊書影より:編集部

「軍事権のカテゴリカルな消去」は、憲法学者・木村草太教授の誇るオリジナルな学説だ。着想は、石川健治・東京大学法学部教授の言説から得ているようだ。だが石川教授の論説は、思想的な概念を使いながら色々と評論しているだけだ。とても真面目な憲法学説を展開するものには見えない(石川健治「軍隊と憲法」水島朝穂『立憲的ダイナミズム』[2014年]所収、石川健治「前衛への衝迫と正統からの離脱」[1997年])。

しかし木村教授は違う。木村教授は、「軍事権のカテゴリカルな消去」を、壮大な一つの憲法理論として仕立て上げようとしているように見える。

木村教授は、日本国憲法には「軍」に関する規定がないことを、「軍事権のカテゴリカルな消去」と呼ぶ。そして、それは、集団的自衛権が違憲であることの理由だと言う。しかし木村教授によれば、憲法の「軍事権のカテゴリカルな消去」は、「行政権」である個別的自衛権ならば禁止しないのだという。

とても理解するのが難しい学説だと感じる。たとえば憲法に「軍の最高司令官は大統領だ」といった規定があると、その国が「行政権である個別的自衛権」と「軍事権である集団的自衛権」を同時に持っていることの証明になるらしい。日本国憲法には、そのような規定がないので、「軍事権」がない。ただし「行政権」については「軍事権」と違って憲法に記載があるので、「行政権」の一つであると言える個別的自衛権は日本国憲法が認めていることになるのだという。

それにしてもこの「軍事権」なる耳慣れない権限は、いったい何なのだろうか。木村教授によれば、「『軍事』は、相手の主権を無視してそれを制圧するために行われます」(48頁)。軍事権とは、「相手の主権を無視してそれを制圧する」権限のことである。

木村教授によれば、この恐るべき「軍事権」なる権限を、日本以外の国々は持っているのだという。ところが日本国憲法が「軍事権のカテゴリカルな消去」を行っているので、世界で日本だけは持っていない。

実は、かつては日本も持っていた。なぜなら大日本帝国憲法が、以下のような「軍事」に関する規定を持っていたからである。

第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

第12条天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム

しかし、大日本帝国憲法には存在していたが、日本国憲法には存在していない規定や概念など、他にもたくさんある。たとえば「統治権」である。大日本帝国憲法第4条は、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ・・・」と定めていた。この「統治権」の概念は、日本国憲法にはない。ついでに言えば、「元首」の規定も日本国憲法にはない。とすれば「統治権のカテゴリカルな消去」や「元首のカテゴリカルな消去」を、日本国憲法は命じているのではないか?

100万部売っている憲法学の基本書の決定版である芦部信喜『憲法』は、最初のページで、次のように高らかに宣言している。

一定の限定された地域(領土)を基礎として、その地域に定住する人間が、強制力をもつ統治権のもとに法的に組織されるようになった社会を国家と呼ぶ。」芦部『憲法』3頁。

同じく東京大学法学部で長く憲法を講じた高橋和之教授は、次のように言う。

国民が、近代市民革命により国王の統治権を奪取し、統治権の客体から主体へと転化するとき、国家が『一定の領土を基礎に統治権を備えた国民の団体』として観念されるようになる。・・・国家意思を形成し執行していく権力を統治権と呼ぶが、この統治権が誰に帰属し、どのように行使されるべきかを定めているのが憲法なのである。」高橋『立憲主義と日本国憲法』4、8頁。

芦部教授や高橋教授の言説は、「統治権のカテゴリカルな消去」をしている日本国憲法に反しているので、違憲ではないか?

そもそも、いったい、いつ、日本「国民が、近代市民革命により国王の統治権を奪取」したのだろうか?日本国憲法典にはそんなことは書かれていない。憲法97条が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」としているのは、基本的人権だ。統治権などという権限は関係がない。なぜ、そんな誰も知らない史実を、憲法学者だけは知っていると主張できるのか?

憲法学者は、「統治権」は「主権」だ、といった弁明をする。しかし、なぜ大日本帝国憲法の概念を用いた言い換えなどをしたいのか?それでは「カテゴリカルな消去」が骨抜きになってしまうではないか?よく考えてみてほしい。「統治権」には木村教授の言う「軍事権」が含まれていたのだ。そんな言い換えをしたら、「軍事権のカテゴリカルな消去」まで骨抜きになってしまうではないか。

仮に「統治権」は「カテゴリカルな消去」をされていないとすれば、なぜ「軍事権」なる最初から実定法で登場したことのない概念が「カテゴリカルな消去」をされた、と言えるのか?

さらに言えば、仮に大日本帝国憲法11条・12条が日本国憲法にはないことを強調したいとして、それは端的に、日本国憲法には「統帥権」概念がない、とでも言えば済む話なのではないか?

さらに言えば、仮に「軍」という文字が日本国憲法に存在していないことを強調するとして、それはまさに「軍」の存在に関わる問題なのであって、「個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲」、などという話とは、全く関係がないのではないか?

しかし、木村教授の「軍事権」理論の恐ろしさは、これらの疑問だけにとどまらない。私には、むしろ木村教授の世界観こそが、恐ろしい。

木村教授の「軍事権」理論によれば、日本以外の国々は「軍事権」なる権限を持っている。つまり「相手の主権を無視してそれを制圧する」権限を持っている。日本に5万人の軍人を置くアメリカ合衆国も、日本にミサイルを放つ能力を持つ北朝鮮も持っている。日本だけが持っていない。

ただし戦前の日本は「軍事権」を持っていた。つまり「相手の主権を無視してそれを制圧する」ことができた。したがってもちろん満州を占領してもよかったし、中国を侵略してもよかったし、真珠湾を奇襲攻撃してもよかった。

木村教授の「軍事権」理論は、現代国際法規範を否定し、大日本帝国の行動を肯定する。木村教授によれば、このような観察の根拠は、日本国憲法にあるのだという。

恐ろしい話である。日本国憲法さえ世界最先端の憲法であれば、あとは国際法が崩壊しようとも、大日本帝国の侵略行為を肯定しようとも、そんなことはどうでもいいのだ。

呆然とする。本当に日本国憲法は、そのようなことを言っているのか。木村教授の日本国憲法の理解は、私の日本国憲法の理解の、完全に真逆である。


編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2018年5月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。