因縁深い愛媛政治家列伝 〜 知事は良くも悪くも「全国最強」の権力者

八幡 和郎

個性的な愛媛の政治家たち(左より塩崎恭久、中村時広、加戸守行の3氏=官公庁サイトより:編集部)

中村時広と塩崎恭久の父子二代に渡る因縁が続く

加計問題では、愛媛県の政治家たちの個性的な振る舞いが混乱に輪をかけている。

地元今治の村上誠一郎代議士は、朝日新聞などで反安倍代議士として大活躍である。彼が安倍首相と違う政見であることは何も悪いことではないが、いかにもえげつないやり方には、「トヨタの車の悪口をトヨタの社員がいえばニュースになるのと同じ」であって、あまり品の良いやり方でない。また、村上が岡田克也氏の義兄であるのに、マスコミがそれを彼の無視できない属性として指摘しないのもおかしい。

一方、中村時広知事については、彼の政治的経歴と、愛媛県知事が代々、全国最強の封建領主といわれてきた歴史も頭に入れておかないと理解できないところがあると思う。

中村氏のアンチ安倍路線は、やはり、塩崎恭久元厚生労働相とのライバル関係が根っ子にあると思う。

中村知事の父である中村時雄は、民社党の代議士で、1949年の初出馬から旧愛媛一区(定数3)で、二度落選したが、三度目の正直で当選したあとは、一度だけ苦杯をなめたものの5勝1敗だった。ところが、1969年の総選挙では、自民党から大蔵官僚だった塩崎潤が出馬して保守系3人が当選して中村は苦杯をなめた。

中村は、1972年の選挙でも落選したが、1975年の松山市長選挙に出て当選した。自由民主党・日本社会党・日本共産党・公明党・民社党がそれぞれ候補者をする「オリンピック選挙」を制したのである。

しかし、4期目の途中にあった1990年総選挙で、あとで説明するように、中村時雄の息子で愛媛県議会議員の中村時広が愛媛1区から保守系無所属立候補したのだが、これに怒ったのが、代議士として8期目だった塩崎潤で、松山市助役・田中誠一に立候補させ中村を落選させた。

それに続く、1993年の最後の中選挙区による選挙では、中村時広は日本新党から出馬して当選。塩崎潤はスキャンダルに巻き込まれたこともあって引退し、息子の塩崎恭久が継承してやはり当選した。

1996年には小選挙区制による最初の選挙が行われ、自民党は関谷勝嗣を立て、中村は新進党から出馬したが関谷が勝利した。このとき、塩崎恭久は関谷との調整で前年から参議院議員となっていた。1999年には中村時広は松山市長選挙に出て、父親を裏切って市長になっていた田中を落選させて仇を討った。

2000年の総選挙では、かねてよりの約束に従い、塩崎は参議院議員を辞職して関谷が補欠選挙で当選し、塩崎は総選挙にまわって当選。1999年には、専横を批判されていた伊賀貞雪知事に、塩崎恭久ら国会議員が反旗を翻し、文部官僚だった加戸守行を立てて当選させた。

加戸は2010年に引退し、中村松山市長を後継として当選させた。しかし、塩崎と中村の関係は円滑とはいえず、塩崎が実質的に支援して、松山市長選挙に中村後継の現職に対抗させて経済産業省の官僚を立候補させたりもした。また、塩崎は総選挙で8連勝しているが、盤石というほどではなく、たとえば、中村が国政に転出すれば微妙とも言われる。

愛媛県歴代知事列伝

最初の公選知事は、官選知事だった青木重臣(1947~51)である。有能な内務官僚だったが、独善的で、とくに県議会で勉強不足の県議たちに対して馬鹿にしたような答弁を繰り返し、反発が強まった。

そこで、保守党派内では、銀行などを経営して貴族院議員だった佐々木長治の名が出たが、当時の自由党党首だった吉田茂は現職の青木知事を優先し混乱した。それを見た社会党は、緑風会の参議院議員だった旧松山藩主の直系、久松定武(1951~71)を擁立した。久松は全県をくまなく巡回し、絶大な人気を獲得した。これをみて、自由党も佐々木に乗り換えて応戦したが時遅く、3000票足らずの僅差ながらも予想外の殿様知事の誕生となったのである。

このように、社会党の支持で当選した久松だが、保守派内でものちに知事となる白石春樹など与党グループが形成され、とりあえず、順調な船出となった。だが、徐々に保革の対立が先鋭化し、とくに、社会党寄りだった副知事・羽藤栄一に対する反発は強かった。ここで、白石は奇想天外な策に出る。つまり、副知事廃止条例を制定したのである。

当然のことながら、羽藤や社会党の反発は強く、法廷でも政治の場でも闘争が繰り広げられた。だが、最後は、大王製紙の井川伊勢吉らの財界人グループが仲裁に入り、知事室での緊迫したやりとりの末に副知事廃止に同意する念書に久松は署名したのである。そして、久松の再選をめぐっては、羽藤が社会党の後押しで挑戦したが、保守陣営に転じた久松に歯が立たなかった。この選挙では、久松陣営が機先を制するために、知事早期辞任の奇策を行い、正月選挙という珍しい伝統が生まれた。

3選目の選挙では、再び久松が社会党が推す三橋八次郎をよせつけず勝利した。だが、4選目の選挙では、保守会派が派閥争いを起こして分裂した結果、保革連合で県政刷新県民の会が結成され、愛媛新聞社長の平田陽一郎が立候補し、まれにみる接戦となった。これに対して、自民党は選挙違反覚悟で徹底抗戦し激戦を制したが、選挙違反が続出し総括責任者だった白石春樹(1971~87)も逮捕された。現在のように百日で判決という時代ではないので、高裁の判決が出て最高裁に上告中に5選目の選挙になり、社会党のエース湯山勇代議士が革新知事らの応援を得て立候補したのを押し返した。

そして、明治百年の恩赦があるというので、白石は上告を取り下げて刑を確定させたうえで恩赦を受けた。このために、久松の4期目は当選無効となったが、任期はすでに終わっていたので実質的意味はなかったのである。そして、1971年の選挙で、「罪を一人で被った」白石はより強固な基盤を手に入れて、湯山の再挑戦を大接戦の末に退けて当選した。その後も、野党は白石が張り巡らせた芸術品とまでいわれたマシーンに歯が立たなかった。とくに、3選目、4選目の選挙では、白石は立ち会い演説会に参加しないという横暴ぶりだった。

この間、久松県政においても、白石が実力者として君臨していたので、久松の5期と白石の4期はほとんど連続している。愛媛では、県教組の力が強かったが、白石はこれを猛然と切り崩した。とくに、久松時代の「勤評闘争」や全国学力テストをめぐる騒動は、全国的にも注目され、全県をゆるがす大事件となった。政治的にも抜群の力を誇った教祖への反発が強かったのに理由がないわけではなかったが、組合員に対する南予の山間地から瀬戸内の離島へ毎年、移すといった過酷な転勤命令、学力テストで全国一位を獲得するために試験の範囲ばかりを教えるとか、成績が悪い生徒への欠席勧告、カンニングや問題漏洩などが続出し子供たちの心にも深い傷跡を残した。

その一方、経済面では、蜜柑や真珠の特産品としての成長、東予新産業都市の建設、南予の観光開発、伊方原発の立地、強力な政治力の成果としての本四架橋「しまなみ海道」の建設などが展開された。

また、来島ドック社長の坪内寿夫と愛媛県の剛腕知事としてその名を轟かせた白石春樹が対立し、坪内が傘下に置いた「日刊新愛媛」を通じて県政批判を展開し、県がそれへの取材拒否に踏み切るという「喧嘩」は、まったくローカルな出来事にもかかわらず全国的な話題となった。この白石の時代から後継者の伊賀貞雪にかけて伊予の知事は全国最強の封建領主といわれたのである。

その白石も高齢のために引退することとなり、副知事の伊賀貞雪(1987~99)が公明や民社の推薦も得て立候補し、事実上の無風選挙を制した。再選時も共産党候補のみが対立候補だったが、3選目には社民党などが前愛媛大学学長の福西亮を擁立して緊迫したが寄せ付けなかった。

だが、4選を狙った1999年の選挙では、若手県議や一部国会議員からの反発で、文部省OBの加戸守行(1999~2010)が擁立され、自民党本部も積極的に応援した。県教組も文部官僚時代の実績を肯定的に評価し戦列に加わり、国会議員の一部や各種団体の一部の支援を受けた現職や、読売新聞出身の県議である藤原敏隆などを圧して勝利した。

伊賀定雪は、松山商業出身の県職員で白石が後継者として指名しただけあって、素晴らしい切れ者の能吏であった。国際化の流れに応じていちはやくFAZ(輸出入促進地域)の指定を獲得したり、松山空港への国際線の就航に取り組むなど積極的な経済開発を展開したし、財政の健全性維持にもすぐれた手腕を発揮したことは間違いない。

政治姿勢も就任早々は「県民を納得させる親切行政」というなど対話を強調し、白石時代とは違った謙虚なものと映った。ところが、徐々に側近政治に傾き、また、プロパー、出向者を問わず職員に対する極端に峻厳な態度、民間人でも少しでも県政改革について意見を言う者に対する露骨な嫌悪を見せた。また、白石時代から国会議員に対する県庁優位は極端だったし、諸行事の際には、すべての出席者が揃ってからおもむろに知事登場とか、知事が他県へ行くときは皇族並みといわれる慎重な準備を県職員がして驚かれたりもした。

あるいは、白石とは一期目途中から関係が悪化し、葬儀にも出席しなかった。こうした極端な姿勢が反乱につながったのである。

加戸は、私のインタビューでも、「これまでの知事は強い権力をもっており、知事が言えばすべて決まるという具合でした。県政をがっちりまとめていけるという良い面もあり、『しまなみ海道』の整備のような大きな事業は、政治力がなければできていなかったでしょう。ただ、人々の多様な感性を県政に生かすことができなかったという面もあります。自由にものが言えて、言ったことが愛媛の社会に生かしていけるようになればよいと思い、知事就任以来、唱え続けているのは職員の意識改革です。役人の悪い面が職員に表われてこないようにし、県民との意見交換が率直に行われるようになってもらいたい」といっていたが、このような背景があるのである。

いずれにせよ、やや極端に個性的な知事たちの時代のあと、加戸知事の下で普通の県政に転換しているということであるが、戦後の愛媛県政が強い自己主張で独自性を求めたことのプラス面も無視できないのはいうまでもないし、加戸もハワイ沖の「えひめ丸」事件の際に示したような強い主張と行動力、教科書問題などで示す自らの信念に基づく主張などに個性を発揮しつつ21世紀の愛媛づくりに取り組んでいる。

その結果として、2期目の選挙では、圧倒的な支持を集めて無風選挙を制した。

松山と言えば「坊ちゃん」だが、同じ明治でも「坂の上の雲」を売り出したのが松山市長時代の中村時広(2010年)。慶応で中学から大学まで学び、三菱商事に就職したが父が市長時代に県会議員に。1993年の総選挙では日本新党公認で当選し、さらに、松山市長。加戸知事との関係も良好で、順当に後継知事となった。

その後、加戸と中村の関係がどうなっているかは、あえて書かないが、いまやかつての殿様知事たちに劣らぬ豪腕ぶりといわれる中村と、禅譲したはずの加戸のあいだは微妙なものなのかもしれない。

(文中敬称略)

地方維新vs.土着権力 〈47都道府県〉政治地図 (文春新書)
八幡 和郎
文藝春秋
2012-10-19