エリートの不合理な計画性:『経済学者たちの日米開戦』


日本がなぜ無謀な日米戦争を始めたのかという問題については、山ほど本が書かれている。本書はそれについて従来と違う答を出しているわけではないが、新しい素材を提供している。陸軍の「秋丸機関」と呼ばれる研究機関で、有沢広巳などの経済学者が英米やドイツの戦力を調査し、1941年7月に出した報告書だ。

この報告書はすべて焼却されたといわれてきたが、著者はそれを発見して内容を分析している。その結論は、それほど驚くべきものではない:英米の経済戦力は日本の20倍なので、長期戦になったら日本は勝てない。しかしアメリカがその経済力を発揮するには1年~1年半かかるので、イギリスだけなら屈服させることができるかもしれない。

これは当時の軍部でも常識であり、日米戦争に勝てると信じる幹部はほとんどいなかったが、何もしないと石油がなくなって「ジリ貧」に追い込まれると考えていた。この報告書が「短期決戦なら勝機がある」とも解釈できる表現だったため、陸軍はそのわずかな確率に賭けた、というのが本書の見立てだ。

これは合理的決定とはいえないが、人間は合理的に意思決定するとは限らない。本書はこれを行動経済学のプロスペクト理論で説明する。

A. 確率1で3000円払わなければならない
B. 確率0.8で4000円払わなければならないが、確率0.2で何も払わなくてよい

Aの期待値は-3000円、Bは-3200円なので、期待効用を最大化するならAを選ぶことが合理的だが、実験では92%がBを選ぶという。人は期待値で行動するわけではなく、現状維持の可能性もある選択肢に魅力を感じるからだ。軍部もAのジリ貧よりBの「ドカ貧か逆転ホームランか」に賭けた。それに対して

A’. 確率1で3000円もらえる
B’. 確率0.8で4000円もらえるが、確率0.2で何ももらえない

という選択肢を提示すると多くの人が、確実だが期待値の低いA’を選ぶ。この報告書が「ジリ貧かドカ貧か」という選択肢ではなく「日米戦争を回避したらどういう利益があるか」というポジティブな選択肢を提示していれば、軍部は開戦を回避したかもしれないが、この報告書はそういう確実な利益を提示できなかった。

だから軍部が意思決定を間違えた原因は、よくいわれるように行き当たりばったりに決めたからではなく、むしろ「2~3年先に確実に石油がなくなる」という事実を認識して戦争計画を立てたからともいえる。もちろんその計画は間違っていたのだが、こういう「不合理な計画性」は今も日本の役所や大企業によくみられる。

この報告書を出した有沢はマルクス経済学者で、当時は人民戦線事件で起訴されていたが、戦後は東大経済学部に復帰して「傾斜生産方式」を提唱し、戦後復興に大きな影響を与えた。よくも悪くも計画経済的だった日本のエリートの失敗は、今もすべて解明されたとはいえない。