一般論として。
社会を変えるためのアクションについて。
昨日のMXテレビ「田村淳の訊きたい放題」で、高プロの問題についてふれた際に、淳さんから「なぜ、国民は立ち上がらないのか?」と質問された。立ち上がってはいる。朝日、東京などは警鐘を乱打しているし、デモも起こっている。大学教員、弁護士、過労死遺族の会、もちろん労組などが声をあげている。
社会を変えるにはどうすればいいだろう。様々な方法があるし、それぞれの手段は公序良俗に反するもの、誰かを傷つけるもの以外は肯定する。
ただ、個々人ができることをすればいいわけであって。また、人によって有効な手段は違う。私はデモと署名以外で社会を変えようと思う。
デモは否定しない。別にそこに主張や対案がなくても、市民の想いを伝えることは重要だ。もっとも、具体的な主張を伝える手段は他にもあり。実際、国会前や官邸前にデモを観に行っても、何かこう、伝統芸のような、やらされ感のようなものを見た気がし。
私はそれよりも集会が好きだ。意見を具体的に伝えることができるし、メディアにも取り上げてもらいやすい。
署名も否定しない。ただ、いつも発起人が同じ顔ぶれ。明らかに名前を貸しているだけの人もおり。集まる数も同じくらいで。それで社会がどれだけ動くだろう。うがった見方をすると発起人のための署名になっていないか。
私は賛否ある人間なので、この手の呼びかけをしても集まらないし、大勢の一人になっても何の役にも立たない気がし。
ただ、私は社会を変えたい気持ちで満ちており。意見を言う、書く、メディアでコメントする、講演する、さらには社会変える若者を育てる。あるいは、社会を変える力がある人を応援する。これが私なりのやり方。普段の仕事も社会に関わりがあるし。あと、選挙で投票するのもね。
例の児童虐待問題では野党党首、野党議員、地元の都議で厚生労働委員会理事の方に嘆願した。具体的なアクションはこれ。次回の選挙では入れないぞというのではなく、直接、意見を伝える。
娘には、常識を疑え、大勢の人に流されるなと今日も精神講和。
意識高い系は苦手だけど、私だって意識低いわけじゃないからな。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2018年6月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。