パス回しに15分間を費やした西野監督の決断について、その議論がやむことはないだろう。Facebookでの私のタイムラインでもいろんな方に参加していただいて議論しているのだが、ここまでのところの中間レポートをしておこう。
まず、イエローカードの枚数を判断材料に入れたFIFAの新ルールについては、合理的だったと思う。
元レフェリーのキース・ハケット氏が英紙『Telegraph』でかいていることを要約すると、「ワールドカップでグループリーグ突破の行方がイエローとレッドのカード数で決まるのは素晴らしいこと」「フェアプレーポイントは良い効果をもたらしている。ユーロやワールドカップでは普通、1試合あたりに提示されるイエローカードの平均枚数は5枚」「だが、グループリーグの全48試合を終えて、イエローカードが153枚、レッドカードが3枚だ。つまり、平均でイエローカードが3.19枚、レッドカードは0.06枚しかない」という。
そうだとすれば、イエローカードの数を問題にしたのは大成功であるといってよいのではないか。
また、最後の15分に起きたことは、フェアプレイ・ルールでなくとも、得失点差において、日本の一点差負けが相手にとっても好ましい場合には同じことが起きるわけで、フェアプレイルール特有の問題ではなかった。
しかし、あの展開になったのは、むしろ、ポーランドの方により大きな責任がある。なぜなら、日本は一点差で負けということをキープすることに非常な利益があったのだが、ポーランドにとって一勝しようが引き分けになろうが、致命的な損得はなかったのだから、ポーランドのほうがもっと積極的にボールを取りに来てくればよかったのである。
西野監督に対して、もし、あのあと、セネガルが点を入れたらどうするつもりだったのかと非難するひとがいるが、それは、確率だけを冷静に計算してより大きい可能性が出るようにボール回しをしたからこそ西野監督を素晴らしい指揮官として評価したい。小さい可能性でしかないあてはずれの時を心配して平凡な作戦をとりがちな日本人には珍しい素晴らしい決断だったと思う。
ベルギー戦に勝てば、西野監督の今回の作戦が評価されるだろうという愚かな意見がある。しかし、世界ランキング3位のベルギーに勝てる可能性は1割くらい。そんなのは、とことん日本を貶めたいとしか思えない。ベルギー戦に参加できたことであの作戦は成功だったわけで、勝てないとダメなのではない。
ちなみにベルギーとイギリス戦は双方ともメンバーを落として決勝トーナメントに備えていた。イングランドは前の試合から先発を8人。ベルギーは9人である。両チームとも2戦全勝で1次リーグ突破が確定して主力に休養を与えたのである。しかも、自陣でのパス回しが多く、勝利をめざしてベストを尽くしていたとは言いがたかった。
アンフェアだったのかといえば、普通、アンフェアなのは、相手が戦いたがっているのに、逃げたときのことだ。柔道の警告とかボクシングのクリンチがそうだ。また、怪我をしたふりをしての時間稼ぎとかもある。しかし、今回は、相手も戦いたくないのだから、相手に対してアンフェアだったことはない。
陸上の短距離で、予選通過が3位なら大丈夫というようなとき、ボルトや桐生が決勝にパワーを残すことを狙って、準決勝では3位狙いで、最後の20mを全力疾走せずにフィニッシュしてもそんな大きな問題ではない。なぜなら、全力を尽くさないことで誰かの邪魔をしたわけでないからというのと同じだ。
とすれば、結局のところ、何か悪かったことがあるとすれば、観客を退屈させたことであろう。とはいっても、最後の15分間だけのことで、それまでは普通の試合だったのだから、「金返せ」というほどではない。
もちろん、面白くなかったのは事実だし、とくに、日本選手がもう少し観客を楽しませる演技などして退屈を紛らわせてくれたらよかったのは確かだが、監督からそんな指示を選手達に与える余裕はなかっただろう。
むしろ偉かったのは、長谷部を投入して、ボール回しの趣旨を徹底させたことの方だろう。それは、ラモスが時間稼ぎをすべき時に、余計なパスで、引き起こしたと言われる「ドーハの悲劇」の再現を避けるために適切な配慮だっただろう。
最後に、サッカーを題材にして、第9条を論じた(茶化した?)らスポーツで政治を論じるなとか言うFとかいう有名ライターがいたようだが、スポーツ観戦が面白いのは、それが人生や社会の縮図だからではないのか?
第9条との関連については、文章をみれば分かるとおり、そんなまじめな議論ではない。ただ、きれい事を貫徹すれば良い結果が得られる式の発想を皮肉っただけだ。
私は平和憲法を実践して殺されても蹂躙されても構わないというのならひとつの考え方で立派だが、平和憲法を実践したら平和も守れるというのは功利的理想主義で嫌いであり、フェアプレイに徹しても道が開ける訳でない、しばしば逆だという現実に日本人が気づくのに役立つと書いただけである。
それにしても、江口克彦先生が、コメントして下さったように、「この頃の人たちは、逆説とか、諧謔とか、皮肉、比喩、ときにユーモアが理解出来ないようで、私も、大いに批判されています。(^。^)コメントに大笑いしています(笑)」ということは間違いない。