2011年から武蔵野美術大学で「キャリア設計基礎」という1、2年生向けのキャリア教育科目を担当している。お陰様で、毎年、多数の学生が受講しており、今年は久々に前期だけで312名が受講。昨日が前期最後の講義だった。受講生が昨日の私の姿をイラストに描いてくれた。そう、昨日は疲れていたのでメガネで。髪も伸び放題な上、癖毛で、このシーズンは暴れるので帽子をかぶっていた。春のバーゲンで買ったものだった。家族には酷評されたけど、学生たちには好評だった。魔法使いみたいだ、と。
魔法使い、か。誰でも幼い頃に、一度は憧れたのではないか。
とはいえ、現実には魔法使いはいない(と考えられている)。魔法のような解決策はない。何かの解決策には副作用が伴う。
盟友おおたとしまささんのこのエントリーが秀逸だった(おおたさんには、ムサビの講義にゲストできてもらったな)。
「働き方改革」を仕切り直そう! なぜ「働かせ方改革」になってしまったのか(おおたとしまさ) – Y!ニュース
「働き方改革」という名の「働かせ方改革」の迷走劇を振り返る上で極めて秀逸なエントリーなので、ぜひそのテーマで読んでもらいたいのだが、最後に登場する「これからは、社会の変え方を変えなければいけない」というメッセージが、これがまた極めて秀逸だ。「働き方改革」における様々な利害による議論や目的、手段の「すり替え」が行われてしまったことを振り返りつつ、SDGsの例をあげつつ「何を変えるか」よりも「何を目指すか」の議論をすること、トップダウンではなく、まずはビジョンのみを共有し、具体的な解決策にを各々の主体的判断に委ねようという方法論を提案している。ナイスな視点だ。
もっともこの「社会の変え方を変える」という方法論についてもまた、捉え方は人それぞれであっていいと思っている。私は、これ自体が古い考え方かもしれないが、小さな声に耳を傾けること、解決策を当事者だけに委ねないこと、ただし、決してトップダウン的なものにしたり、すり替えを行わないように監視することが大切だと思っている。
一つ言えるのが、従来型の「社会の変え方」に市民はうんざりしているのではないか、ということ。革命や戦争はリスクが大きいし、血が流れる。議会制民主主義による多数派による改革という名の政策の押し付け、官僚の暴走も困ったものだ。選挙というシステムは、制度によってはそもそも、民意を必ずしも反映しない。デモや署名は手段としては否定しないし、市民の意思表明にはなるが、やはり社会を変えるとは限らない。
中には「社会を変える」ということが特定の個人や団体のセルフブランディングに悪用されている例や、変革者面をした与党の手先も散見される。安易な二項対立や数「だけ」を論拠にした議論も品がないと思う。傲慢な自己肯定、市場原理主義、ワンフレーズポリティクス、ポエム化、特定の局面の文脈からの切り離しと焦点化、自己正当化、多様性の肯定を装った意見の押し付け、想像力の欠如、共感能力の欠如か過度な共感……。このあたりが日本には跋扈していないか。
個々人が解決策を考えること、専門家が巻き取ること、小さな声を巻き取ること。課題と解決策と解決する人のマッチング。何より右だろうが、左だろうが、真ん中だろうが、極論と感情で暴走しないこと。
このあたりを考えたい。
社会の変え方を変える。
さて、あなたはどう考えるか。
ナイスな問題提起だった。ありがとう。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2018年7月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。