豊臣政権のナンバーツーだった織田信雄。出来の良し悪しを検証する

八幡 和郎

このところ、今川氏真に注目が集まるなど、出来の悪いジュニアが意外に歴史のキーマンだったのではないかという見方が流行している。

氏真についてそれが当てはまるかは疑問だが、それでも、夫婦仲良く徳川の客分として長寿を誇り名跡も後世に残したのだから、ひとつの生き方だ。

しかし、それならもっと「大物」がいる。織田信長の次男である織田信雄だ。この人物をこれまでも私はよく取り上げてきたがちょっと紹介してみよう(「江戸時代の『不都合すぎる真実』」PHP新書など)。

肖像の容姿も偉大な父を彷彿とさせる織田信雄(総見寺蔵、Wikipedia)

本能寺の変は、会長と社長が同時にいなくなったから後はたいへんだった。このとき次男の信雄がそれなりの出来だったらとりあえずは後継者だったが、本能寺の変のあと明智が占領した安土城を無意味に焼いただけというお粗末。もしかすると、光秀と話を付けようとした可能性もあると私は思う。

そこで老臣の勝家は、自分が親しく、少し出来も良い信孝を提案したが、信忠や信雄が第二夫人的な存在だった吉乃の子で、信孝はあまたいる側室の子にすぎなかったから無理だった。

結局、清洲会議の結果、信忠の遺児である三法師を後継者にして、信雄・信孝が後見となった。そして、秀吉は信雄が信孝を排除するのに協力し、信孝は信雄によって切腹させられた。これは秀吉がやったのでない。

しかし共通の邪魔者を排除すると、三法師丸は代表権のない会長みたいなものだから、信雄は自分が社長で秀吉が副社長と思った。ところが、秀吉は自分が社長で、信雄は副会長くらいの感覚だったので対立した。

そこで、信雄は、家康と結んだ。小牧長久手の戦いでは家康が勝ったのだが、持久戦になると領地を占領された信雄が根を上げた。そこで秀吉は、信雄を大納言にすることで籠絡し、信雄は政権ナンバーツーに収まり、やがて家康もナンバースリーとなり、天下統一のころは、信雄が内大臣で家康が大納言、秀吉の弟である秀長が権大納言だった。

しかし、小田原の役のあと秀吉が、家康の関東移封のあと、信雄を清洲から駿河に移そうとすると、信雄は拒否して秀吉の怒りに触れ、信雄を改易し追放した。その一方、三法師丸秀信を岐阜城主にして織田家惣領として持ち上げ、やがて、信雄も赦してお伽衆とし、息子の秀雄に越前大野五万石を与えた。

関ケ原では西軍寄りで動いたので秀雄は改易されたが、信雄は姪の淀君の縁でその後見役的存在として重きをなした。大坂冬の陣のときは、総大将とも噂されたが、開戦の直前に城外に出て傍観した。スパイだったともいわれるが、融和論を淀君に嫌われたのだろう。

そして、戦後は、家康から大和国宇陀郡、上野国甘楽郡などで5万石を与えられた。後に四男・信良に上野小幡藩二万石を分知し、京都に隠居し、悠々自適の日々を送り、寛永7年(1630年)、京都で死去。73歳。大和宇陀郡の隠居領は、五男・高長が相続した。

また、信良の娘は駿河大納言忠長の正室となったから、石高はともかく、十分に優遇されていたわけである。

その後、小幡藩は山県大弐事件で天童に、松山藩は宇陀崩れというお家騒動で丹波柏原に移され、格も小大名と同じにされたが、ともかくも、幕末までふたつの大名家として存続し、明治になっても子爵となった。

なんとも頼りない人だが、老舗のぼんぼんとしては、暖簾は守ったわけだし、天下の行方に影響力も及ぼしたのだから、いうほど馬鹿でもなかったのかもしれない。

江戸時代の「不都合すぎる真実」 日本を三流にした徳川の過ち (PHP文庫)
八幡 和郎
PHP研究所
2018-06-05