平成最後の「終戦記念日」、僕が生きている限り何度も言いたいこと

今年は、平成最後の終戦記念日だった。8月15日の戦没者追悼式には、天皇皇后両陛下が出席された。来年4月に譲位を控えた陛下にとって、最後の追悼式だ。

73年前のこの8月15日に、玉音放送を聞いたとき、僕は小学校5年生だった。それまでは、海軍に入って、お国のために立派に死ぬことが、僕の夢であり希望だった。そんな「軍国少年」だった僕は、日本が負けたと知って絶望した。そして、泣き疲れて寝てしまったのだ。

目が覚めると夜になっていた。昨日までは、夜になると真っ暗になっていた。夜間空襲の目標にならないように灯火管制が行われていたためだ。ところが、その夜、目が覚めると、街が明るくなっていたのだ。僕はそのとき、「ああ、戦争が終わったんだ」と初めて実感した。そのとき、絶望感が解放感に変わったのを、いまでも覚えている。

夏休みが終わり、学校に行ったとき、僕をさらに驚かせたことがある。夏休み前まで先生たちはみな、「天皇陛下万歳」と口にしていた。さらに、「世界の侵略国であるアメリカやイギリスを打ち破り、アメリカやイギリスの植民地にされているアジアの国々を独立させるための正義の戦争だ」と当たり前のように言っていた。ところが、2学期になるとどの先生も、「あの戦争は間違った戦争だ」と、言うことが180度、変わったのだ。

先生ばかりではない。ラジオも新聞も同じだった。やはり180度、言っていることが変わったのだ。終戦時に首相だった東条英機ら、政治家や軍人は英雄だった。そんな彼らが、次々に「戦犯」として逮捕されていった。すると1学期までは、彼らを英雄としてほめたたえていたラジオや新聞が、「彼らは逮捕されて当然、悪い奴らだ」と言うようになったのだ。これで僕は、偉い人の言うことやラジオ・新聞をいっさい信じてはいけないと思った。

これが、ジャーナリストとしての僕の原点だ。だから僕は、自分で確かめたこと以外は信用しない。「常識」さえも徹底的に疑ってきた。もうひとつ、「言論の自由」の大切さも原点のひとつだ。僕の命をかけてでも守るものだと思っている。

機会があるごとに話しているが、何度でも言っておきたい。それが、「あの戦争」を知る者としての務めだと思っているからだ。

天皇陛下は、僕と同じく、「あの戦争」を知る世代だ。沖縄、サイパン、パラオ、ペリリュー……。これら多くの激戦地を、天皇陛下は巡られてきた。「慰霊の人生」と言ってもいいのでは、と僕は思う。万感の思いがあっただろう。

平成という時代が、終わる。昭和のあの戦争は、ますます遠くなっていく。だからこそ、何度でも僕は言いたい。二度と戦争をしてはならない、と。


編集部より:このブログは「田原総一朗 公式ブログ」2018年8月23日の記事を転載させていただきました。転載を快諾いただいた田原氏、田原事務所に心より感謝いたします。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「田原総一朗 公式ブログ」をご覧ください。