知名度が上がれば何とかなる?
8月24日、首都大学東京(以下、首都大)は2020年4月より「東京都立大学」へと名称変更することを発表した。名は体を表すと言うが、今回の件は名が体を表したうえでの変更なのか否か、定かではない。その意味で、改名プロセスやネーミングなど、名称変更にまつわる是非を問う声も数多くあるのだろう。
しかし、私は一大学関係者として、看過できない別の課題への言及必要性を感じている。それは、大学生のネーム・バリュー頼みについてである。
首都大が改名に至った一因は学生の声であった。昨秋に同大学が実施した学生調査では、「大学に改善してほしいこと」という設問に対して「大学名・知名度」と答えた学生が約半数(46.1%)に達した。
ニュース番組の報道では、「企業が大学名を知らず、就職活動で不利だ」などの学生のインタビューも紹介されていた。
つまり、学生の声とは「ネーム・バリューを高めてほしい」というリクエストである。断っておきたいのは、今回、首都大生の声が偶然取り上げられたが、他大学の就職課との交流で感じるのは、ネーム・バリューへのリクエストは、何も首都大が例外ではないということだ。
しかし、「知名度が上がれば何とかなる」という発想はあまりに短絡的な根拠無き空想ではないだろうか。
ノー・バリュー ノー・サンキュー
そもそも、受験時に大学の知名度は分かっていたはずである。責任転嫁は確かに楽だが、君達が批判対象とするその組織に入学することを選んだのは、他の誰でもなく君達自身である。たとえ、それが不本意入学などの如何なる経緯であっても、だ。
責任転嫁の悪癖を矯正しない限り、仮に就職できたとしても、今度は「会社や商品の知名度が低いから売れない」などと相も変わらずネーム・バリューのせいにするだろう。そして、こうした負の再現性を採用前に想起させてしまうから、ネーム・バリューのせいにするノー・バリューな学生は、企業からすればノー・サンキューなのである。首都大生のインタビューでは「就職活動で不利」との声があったが、不幸にも、その不利を招いてしまう最大の要因は、実は君達自身の悪癖にあるのだ。
ネーム・バリューはアイコンに過ぎない
「知名度さえあれば」と思う学生諸君の夢を壊して申し訳ないが、たとえば有名企業に所属する本物社員は、所属組織のネーム・バリューになど依存していない。もちろん、彼らの「自分の名前で勝負したい」という個人的志の側面も影響しているだろうが、組織のネーム・バリューだけで勝負できるほど社会は甘くない、という構造的事実の側面もある。
たとえば、お菓子を買うときに「これはロッテの商品だから」「これはブルボンの商品だから」「これは明治の商品だから」と企業名で選ぶだろうか。きっと、お菓子名で選んでいるはずである。3社ともに有名企業だが、それでも、どのお菓子がどこの会社の商品かを覚えてもらうのは朝飯前ではないのである。ほかにも、御自宅にある家電製品のメーカーを全て言い当てられる方は少ないだろう。それでも、その多くは有名企業の製品のはずである。
つまり、有名だからといって安泰でも余裕でもないのだ。皆、血の滲む努力をなさっておられる。それは、消費者である君達が最もよく知っていることではないか。ネーム・バリューは無敵アイテムなどではない。あくまで少しの間人々の足を止め目を引くアイコンに過ぎないのである。消費者として培ってきた厳しい眼差しが、生産者側に回る時やけに甘くなるのは勿体ない。
無名とはチャンスである
是非、学生諸君には手持ちの仕事観に少し修正を加えていただきたい。「同じ時給1000円を得るなら極力何もしない(顧客が来ないなど)方がコスパは良い」「良い仕事をするには有名な組織に入るべき」といった仕事観を学生達から感じる。だが、「時給が同じならお金以外の報酬(経験など)も貰う方がお得」「今は無名だが見所のある組織に入って自分が有名にしてやろう」という仕事観だって、アリである。ネーム・バリューに過度な期待を寄せることなく、今居る場所で一所懸命になってみて開ける道もある。ないものばかり見ても仕方ないのだから。
創造的な仕事を成し遂げる条件として、「若いこと」「貧乏であること」そして「無名であること」の3つを挙げたのは、今や世界的にも有名な宮崎駿監督(スタジオジブリ)であった。無名であることは、言い訳の対象どころかチャンスの種なのである。なぜなら、有名だと色眼鏡で見られるが、無名だと曇りなき眼で見てくれるからである。
たとえば、就職活動では無名大学ということが価値になり得る。大学に関する偏見がなくフラットに君達を見てくれるからだ。ネーム・バリューなどに依存せぬ確たるヒューマン・バリューがあれば、自由自在に自身をアピールでき、そのままの濃度で受け取ってくれる。同じことは、有名大学の学生には難しい。様々なイメージが人々の頭の中に事前に出来上がっているからである。
できない理由探しより、できる方法探しを
言い換えれば、有名とはリスクでもあるということだ。知名度に飛びつき「寄らば大樹の陰」で大樹に潜り込んだ人々は、大樹ごと倒れるリスクを計算に入れていない。
今や有名企業であっても、知らぬ間に忍び寄っていた予想外の競合との戦いに敗れたり、気づかぬ間に連綿と継続されていた組織的不祥事によって瞬く間に没落する可能性もある。ネーム・バリューはアイコンに過ぎず、アイコンはしばしば入れ替わるのが常である。
知名度の幻想に囚われている、今は名もなき学生諸君。今すぐネーム・バリュー頼みと訣別し、無名というチャンスを積極活用する構えに発想転換いただきたい。できない理由探しをやめ、できる方法を考え尽くしてほしい。無名時代にこそ、できることがあるのだから。
高部 大問(たかべ だいもん) 多摩大学 事務職員
大学職員として、学生との共同企画を通じたキャリア支援を展開。本業の傍ら、学校講演、患者の会、新聞寄稿、起業家支援などの活動を行う。