がん患者や家族の声を聴く:薬剤承認が遅れて患者を救えない日本

フライデー効果のためか、以前より患者さんの声がたくさん届く。再発への不安もあるが、最も多いのは、標準療法が終わると同時に、医師から見捨てられたと感ずる理不尽さとそれに対する怒りだ。繰り返し述べているが、標準化は必要なことだったが、その先が準備されていなかった。

21世紀に入ったころ、ドラッグラグ=「がん難民を生み出す原因だ」と短絡して考えたのが間違いだった。海外で利用できる薬剤が、日本では使えないことが大きな批難につながり、日本と欧米における承認の時間差を縮める施策が取られ、これは成果を挙げてきた。「今、救えるかもしれないがん患者を、薬剤の承認が遅れて救えない日本」という訴えがエコーのように広がり、これに行政と政治が応じた結果だ。

しかし、膨大な数の臨床試験が実施されている米国と日本の差は以前より開いてきている。がんの臨床試験数が1000を超える米国に比べ、日本で実施されている臨床試験数ははるかに少ない。韓国や中国が実力をつけ、国全体が臨床試験を評価していることと相まって、日本パッシングが起こっている。2017年には38万人弱の日本人ががんで亡くなっている。約100万人の罹患数なので、40%程度の死亡率だ。標準化治療を受けて保険診療で使える薬剤がなくなった人や標準療法を拒否した人が、どんな気持ちで人生最後の6ヶ月間、1年間を過ごしたのかと思うとやるせないものがある。

日本の医療保険財政が厳しいため、医師のさじ加減でできる範囲が極端に狭まってしまった。予後を正直に告げなかったことが裁判で争われ、医療側が敗訴したこともあった。プロトコールに沿って、平均的な残されたことを正直に告げることで医療側は患者さんの心に寄り添う責任を回避できるようになったのだ。私は、患者さんの心の負担を背負うことも医療だと思うが、もはや、このような精神論は20世紀の遺物になったような気がする。

テレビで「パワハラは、そう感じた人がいれば、パワハラだ」とアナウンサーが正規の味方のような顔をして言っていたが、私の心には素直に入ってこない。いい加減なことをして叱られた部下が、腹立ちまぎれに「パワハラだ」と叫び、周りが同調すれば魔女狩りの世界だ。私など簡単に罠にはまりそうだ。アジア大会のバスケットボール選手のした行為は品格のない行為だが、メディアの人たちや多くの知識人と称する人が彼らを総攻撃するほど品性に満ちた生活を送っているのか、はなはだ疑問だ。私の知る人の中にも、怪しい人はたくさんいる。何かが発覚すると、日本全体で石を投げつける風潮はおかしいなどと、考えていたら、気持ちが落ち込んできた。

制度の壁、利権を守ろうとする壁、分厚い岩盤を突き破るには直球だけを投げていては無理なようだ。若いころには、野球でナックルボールやフォークボールを投げていた。人生を生き抜くには変化球が必要かもしれない。しかし、直球を投げて、逆転満塁サヨナラホームランを打たれる方が、私の人生にふさわしい。「打てるなら、打ってみろ」の気持ちでこれからもやっていくしか道はない。たとえ、1%の可能性でも、がん医療の壁を崩していきたい。


編集部より:この記事は、医学者、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のこれでいいのか日本の医療」2018年8月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。