メルカリに宿題を出品することは悪か --- 葛原 祥太

寄稿

夏休みも終わりに差し掛かったところこのようなニュースが世間を賑わせた。

『宿題「出品」、メルカリなどダメ文科省が要請』

この記事はワイドショーでも扱われ様々な意見がかわされた。

その中で、堀江貴文氏はTwitterでこのように発言している

私もこの意見に基本的に賛成であると同時に、くだらなくない宿題」の案がある。

本稿では宿題の問題点とその改革案の入り口を述べる。

夏休み終盤のテレビでも話題に(NNNニュースより:編集部)

学校の宿題は本当にくだらない

僕は小学校教師になってから、宿題を出すのが嫌でたまらなかった。

僕が教師になって直面した宿題の実情とは以下のようなものである

  • 毎日毎日代わり映えのない課題を出して、やらせる。
  • 忘れてきたら、なんとなく怒らなきゃならない雰囲気。
  • 怒られたくない子どもたちは嘘をつく。嘘をつかせてしまう。
  • 子どもたちを疑わなくてはならない。
  • それでいて、全員一律に出す宿題が、全員の基礎学力の保証になっているかが非常に疑わしい。
  • 少なくとも上位層にとってはひらがなの「あ」を100回書いてきましょうというのと脳に対する刺激は同じ気がする。だってわかっていることをただ再生するだけだから。
  • 下位層にとっては全く自分で取り組めないレベルだったりする。
  • だからといって、到達度別に個々の宿題を毎日作成してやるほどの余裕はない。

このような宿題はまさに「くだらない。」

宿題に全く意義が見いだせなかったのである。

だから教育書や先輩に宿題の意義について尋ねてみた。

そこで紋切り型に返ってくる答えが、「学習習慣」の定着のため

これも非常に疑わしい。

宿題でつく習慣は「学習習慣」ではない。

まず、上に挙げた通り、少なくとも学力上位層の子にとっては「学習」にはなっていない。

さらに、学校はできない子が出てくる状況を極端に嫌うため、宿題として出される課題は学力下位層でも問題である場合が多い。

その結果、学力中位層にとっても、学校から出される宿題は「学習」になっていない可能性が非常に高い。

もっというと、学力下位層の子は、一人で学ぶための環境が安定していなかったり、学ぶ意欲がまだ芽吹いていない場合が多いため、その子達にとって家で一人で取り組むという宿題は、非常にハードルが高いケースも多い。

恐ろしい状況がおわかりになるだろうか。

「宿題において、全員が取り組める程度にレベルを下げられた課題を全員一律に課す」という行為は教室の多くの子達にとって「学習」の機会を与えることにはならないのである。ここに「学習習慣をつけるために宿題を課す」という大義名分は崩れ去る。

宿題で与えられる課題は多くの子にとって「学習」ではなく「作業」なのである。

さらに、本当に恐ろしいのはここからである。

上記の状況であるにもかかわらず、学校からは今も無思考に作業的な宿題が出され続けている。

子どもたちはその作業的な課題を毎日やらされる。毎日やるからには何らかの行動や思考が習慣化してしまう恐れがあるのである。それはなにか。

子どもたちに「なんで宿題をやるの?」と尋ねてみると、どんな答えが返ってくるだろうか。

ご自身が子供の頃を思い浮かべて、答えてみてほしい。

「え?自分が子供の頃ってそこからだいぶ時間が経ってしまっているけど?」

問題ない。なぜなら学校教育で行われていることは本質的に何も変わっていないのだから。140年前から。

子どもたちに「なぜ宿題をやるの?」と聞けばなんと答えるか。

「やっていれば先生に怒られないから」

これが大半ではないだろうか。

あとは「宿題をやればゲームができるから」も考えられる。

この思考の裏側に潜む思考に目を向けてみると

「やっていれば先生に怒られない」

「面倒くさいけど、立場が上の人が言っていることにはとりあえず従っておけばいい。

⇒自身の環境に対する無思考、受動的態度

「宿題をやればゲームができる」

「嫌な宿題(子どもたちの中では宿題=勉強)をすれば楽しいゲームができる。」

⇒学習に対するマイナスイメージの醸成

こうは言い換えられないだろうか。

つまり、無意味で作業的な宿題は、「学習習慣」をつけるどころか、「無思考に与えられた行動を再生すること」と「勉強することを苦しみと捉えること」を、毎日毎日繰り返させ、習慣化させている可能性があるとは言えないだろうか。

まさに百害あって一利なし。

ホリエモンが「くだらない」という所以はここにある。

そして「くだらない」どころの騒ぎではない。

だからメルカリに学校の宿題が販売されることは、必然の現象なのだ。

その出品だけを取り締まってもなんの解決にもならない。

本質的な問題は、「無意味で作業的な宿題」を出している学校にあるのだから。

教育界は一刻も早く対応しなければならない。

選択は2つに1つ。「やめる」か「改革するか」だ。

宿題を改革する

冒頭で私には宿題の改革する「くだらなくない宿題」の案があると述べた。

その案を簡潔に述べよう。

宿題では自立学習の方法の獲得を狙う。

独学力を磨くステージとして「宿題」を捉え直すのである。

家で、一人で取り組む宿題は自分なりの「学び方」を試行錯誤しながら獲得する場として絶好のステージなのだ。

「でも、どうやって?」

私はその方法を「けテぶれ学習法」として確立した。

私のクラスの宿題は、学習箇所、学習内容、学習方法は全て自由である。

ただし、着実に学びを積み上げられているのなら。

このような環境で子どもたちは自らの学び方を見つめ、モチベーションをコントロールし、試行錯誤しながら学びを積み上げる経験を毎日、積み上げる。

学校が無思考に課している宿題が抱える問題。これには早急に対処しなければならない。

葛原 祥太 兵庫県公立小学校教諭
子どもたちの自己学習力を覚醒させる学習法「 #けテぶれ 」を考案し、実践している小学校教師。アクティブラーニングを実現する「学習界マンダラ」、論理的思考の柱となる「NKS思考法」、徳性の基準となる「心マトリクス」、 根本的な算数概念を育む「算数の幹」など、オリジナル実践多数。ブログツイッター