大地震の件もあり、札幌のことを想う今日このごろ。おかげさまで札幌市南区藤野の実家は、9月7日(金)の19時50分ごろ、やっと電気が戻った。1日半以上の停電は母にとって初めてだったのではないだろうか。一人で暮らしているので、不安だったことだろう。ホッとした。
昨日は、母校札幌南高校の集まりがあり。同窓会会報誌の企画で、座談会。外交官、大学教授(私とちがってカタギ、正統派)、私というトリオ。校則が少なく、私服通学OKだった札南で学んだことは何か、と。
バンドと音楽鑑賞と読書ですぎていった3年間だった。あまり記憶がないのだけど、家族によると私は「暴走族に入らない、非行に走らない、不良少年」だったそうで。特に祖母や弟は私のことを心配していたようで。毎日、爆音でメタルを聴き、テレビでニュースを見るたびに権力、体制批判をするといういちいち、見た目と言動が過激だそうで。「あなたが兄で、本当に大変だった」と数年前に弟に面と向かって言われたことがある。ただ、母も弟も高校が一緒で。自由な空気を一緒にすってきた。
お酒を飲みながらの座談会というか、単に飲み会だったので。何を発言したかよく覚えていないのだけど。
私は、物書きになる、東京で大学生活を送るという夢への第一歩だと思って、それ以上に自由になりたくて札幌南高校に行ったのだけど。ふと思い出すと、「自由」や「個性」ということをひたすら考えた3年間だったように思う。尾崎豊の一連の歌詞ではないけれど、「自由」というものと向き合い続けたような。メタルTシャツやライダースジャケットを着てブーツを履いて楽器を背負って高校に通ったところで、自由になれた気すらしなかった。
個性に関してもそうで。なんせ、入学したその日に、忌野清志郎か、ストリート・スライダーズかというルックスの奴が一番前にいて。彼はDachamboというバンドで、フジロックや朝霧JAMなどに何度も出演している、青木篤だった。他にも自由奔放系はいっぱいおり。
中学校の受験勉強での成績がいいのは当たり前なので。それ以外に、何か光る個性があるかどうかという感じで。自分はなんて面白くないやつなんだろうと考え続けた3年間だった。
でも、あの日々があったから、大学に入っても、会社に入っても、物書き業界に入っても、たいていの人は札幌南高校の仲間ほどは面白くないので。自分を鍛える場だったのだろう。
いま、高校生だったら何をしたかという話になったけど、やっぱりブログとTwitterでオピニオンを発信しまくるんだろうな。
当時は、学級日誌に社会への怒りを書き綴る日々だった。懐かしいな。
というわけで、大事な原点の話。あの頃の熱い想いは、まだ残っているんだろうか。大丈夫、きっとあるさ。さ、原稿。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2018年9月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。