『誰もが知っておくべき!「お金持ち」になる6つの方法』(18年9月17日)や、『「お金持ち」になる人となれない人の「小さな分かれ目」』(18年6月7日)、あるいは「お金持ちになる人の4つの特徴~多くの富裕層を見てきた金融機関OLが語る」(18年7月29日)等々と、種種雑多な「金持ち論」がネット上には溢れています。私の感じでは基本、犯罪行為に手を染めない限りにおいて、お金というのは得ようと思って得られるものではないと思っています。
先ず、どうやって得るかといった類を考えるよりも、日々与えられている仕事を一心不乱に兎に角やり抜くことが大事です。それが結果として幾らかの報酬に繋がり、また今度は更に大きな志を得られて、もっと世のため人のためになる事業をやりたい、というような境地に入って行くことにもなります。
世のため人のためを思い、志を抱いて必死になって努力するのであれば、誰にだって成功する可能性があるのです。そして成功すればお金が入ってくる、といったこともあるでしょう。他方言うまでもなく、世のため人のためを幾ら思っても成功しないケースがあります。それは、それだけの分(ぶ)だということです。
『中庸』に、「君子は其の位(くらい)に素して行い、其の外(ほか)を願わず…君子というものはその自らの立場・環境に応じて自らを尽くし、他の立場や環境を欲したりはしない」とあります。富貴には富貴で、貧賤には貧賤で対応できるのが君子ですから、それはそれで諦めて行くということです。
一生懸命「位に素して行い」、また位が変われば其の位に素して行う--驕ることなくまた卑屈になることなく自分の立場をきちっと弁えて、天意を素直に受け止め与えられた範囲内で地に足を付けて淡々と生きて行く「素行自得(そこうじとく)」の生き方が正しいのだろうと思います。
また『論語』に、「死生命あり、富貴天に在り…生きるか死ぬかは運命によって定められ、富むか偉くなるかは天の配剤である」(顔淵第十二の五)という子夏の言があります。金持ちになるかどうかは、天の配剤としか言いようがないのです。但し、天意に沿わぬものは基本的には泡銭(あぶくぜに)ですから、たとえ入ってきても直ぐに無くなって行くことでしょう。望まずとも偶々莫大な遺産が転がり込んできたようなケースは泡銭と同じで、詰まらぬことに使って直ぐに底を突くわけです。長期に亘って真にお金を得ようと思うならば、世のため人のためという志が大前提です。世のため人のためでお金を作った人は、また世のため人のためにそのお金を使うのです。
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