このところ、私のことを「反中国」だとか「嫌中国」だと思っている人がいるが、もともと「親中」だとして批判されてきたことが多いので不思議な気分だ。
中国の対日政策については、『中国と日本がわかる最強の中国史』(扶桑社新書)でその歩みを分析したので、ここ30年くらいの日中外交史を振り返り、あわせ私の中国観の変化についても書いてみたい。
通商産業省(現経済産業省)に勤めていた頃、北西アジア課長(中国・朝鮮半島・インドなど管轄)という仕事を1993~94年まで勤めていたし、それ以前に、工業技術院国際研究協力課長(1988~90年)で中国ともっとも濃密に付き合った。
前者は細川政権から羽田政権の時期、後者は天安門事件の前後である。
私は天安門事件については、日本人のなかでは、一定の理解を示してきたほうだ。そのころたびたび中国に行って、趙紫陽の安直な経済自由化路線がひどい拝金主義を生み、経済の健全な発展に支障をきたすと思い、また、趙紫陽が学生たちを利用して権力闘争をしているとみえたからだ。また、誇張された報道は「南京30万人虐殺説」と同種のものとみた。
だから、あまり強い経済制裁にも反対だったし、制裁解除第1号を主導した。また、中国科学院と工業技術院の包括協力協定をまとめた。その後、ヨーロッパ在勤時代もエリツィンのロシアへの支援と鄧小平の中国に対する厳しい姿勢とは不均衡だとヨーロッパ諸国に説いていた。北西アジア課長時代は、朱鎔基が副首相だったが、その経済政策も支持しずいぶん協力もした。
1990年代の後半の江沢民の反日路線には腹が立ったが、あのころは、日本の対米外交があまりうまくいっておらず、そこにつけ込まれた観もあった。また、江沢民の反日に父親が汪兆銘政権幹部だったと言われる前歴も理由としてありそうな特殊事情もあった。
2000年代になると胡錦濤自身は反日的でもなかったといまも思うが、江沢民の院政による圧力があったうえに、小泉首相の靖国参拝強行があいまって胡錦濤も路線変更が出来なくなったと思う。本来は、靖国神社について中国に干渉されたくはないが、過去の経緯を踏まえると、韓国の場合と違って言い分が分からないわけではない。
その後、第一次安倍内閣、福田康夫内閣の日中関係はしごく順調に改善していた。それを尖閣問題の幼稚な処理と不手際で悪化させたのは、民主党内閣であって、第二次以降の安倍内閣はその負の遺産を引き継いでいる。
習近平のどこが間違っているのか
習近平の問題は対日政策でなく、そもそもの世界観にある。習近平は、反腐敗闘争をひとつの柱にしている。胡錦濤のあいだに腐敗が中国の経済社会の維持を困難にするほどに深刻化したからだ。
そこで、厳しい引き締めをする一方、「強国」をめざすとか言って対外的覇権主義をめざした。
私は習近平の中国は三つの点で問題があると思う。
①中国は豊かになったからもう民主主義に移行すべきだ。
②WTOを甘い基準でさせてもらったのも貧しいから大目に見たのであって、いまや、不明朗な市場介入はやめるべきだ。
③といっても豊かとまではいえないのに「富国」に代わる「強国」とかいって覇権を求めるようなまねはやるべきでない。
この三つについて世界は譲るべきでないと思うし、それは中国人民のためでもあるというのが私の意見だ。
習近平の対日政策は、「反日」でなく「日本軽視」だといわれてきた。アメリカと中国の二大国で世界を支配できると思い上がったのである。しかし、こうした路線は誤りであると習近平も覚ったのだと思う。これは安倍外交の勝利であるし、森友に代表される些事に過度に惑わされずに安倍政権を支持してきた日本国民の勝利でもある。