8月に亡くなった翁長雄志・前沖縄県知事の県民葬が9日に行われた。すでに報道されているように、参列した菅官房長官が安倍首相の弔辞を代読した際に会場内から怒声が飛んだ。
読売新聞によれば、弔辞で「基地負担の軽減に向けて一つ一つ確実に結果を出していく決意だ。県民の気持ちに寄り添いながら沖縄の振興・発展に全力を尽くす」などと述べたことに対し、「帰れ」「うそつき」などと怒声が飛んだという。実際、地元テレビ局の動画でもその様子がわかるが(1分15秒〜22秒)、基地問題を巡り、安倍政権ととことん政治的に対立したことによる「しこり」がいまだに大きいことを感じさせた。
この日は一般県民も含めて約3000人が参列。翁長氏の地元での影響力をあらためて示す形となったが、支持者らが「政敵」である安倍首相や菅氏に対して、辛辣にあたるのは仕方あるまい。しかし、地元の報道機関は、県民の意を汲むにしても、同じように感情的な態度に出てしまうのはどうなのか。けさの琉球新報の社説に目を疑ってしまった。
<社説>首相の追悼の辞 空疎で虚飾に満ちている – 琉球新報
見出しからして、一国の首相が県知事に対して弔意を示したことに対し、部分的に批判的に論評するにしても、「虚飾に満ちている」と断じてしまうのは、弔辞がすべて嘘であり、一国の首相を公然と嘘つき呼ばわりしたに等しい。
参列した菅氏に対しては、さらにすごい物言いだ。
菅氏の参列に「何のかんばせあって」という印象を持った県民も少なくないだろう。今や官房長官は沖縄への圧政を象徴する存在と言っていい。政権の高圧的な姿勢が翁長氏の健康を害する一因になった可能性も否定できない。
これを読むと、琉球新報は、「翁長氏を殺した官房長官がどのツラ下げて葬儀にきたんだ、コラッ。東京に帰れ」と啖呵を切ったようなものではないか。仮にも政府を代表して、地元自治体の長として尽力した故人に対し、最期の挨拶にきている。基地問題での対立はあっても、国と自治体の機関同士が、葬儀という節目に筋を通すことにまで全否定だ。
誤解しないでいたただきたいのは、日本は言論の自由が認められているし、琉球新報が反安倍路線をとろうが、反基地路線をとろうが、基本的なスタンスは好きにやってもらって構わないと思う。しかし、県民感情を紙面に反映するにしても、日本新聞協会に加盟し、地元報道機関を代表する新聞社の一社であるわけだから、プロのジャーナリストとして感情的なファクターを一度整理し、冷静にまとめて、きちんと伝えていくことも重要ではないのか。
これでは、反安倍というより、ただの「安倍ヘイト」だ。事実を突きつけ、矛盾を指摘し、安倍政権の問題点を追及するのはどんどんやるべきだし、弔辞を「空虚」と論評するのは結構だが、しかし、「虚飾に満ちている」「圧政を象徴する存在」などと書くのは、日刊ゲンダイやハーバービジネスオンラインではあるまいし、さすがにやり過ぎだ。
琉球新報が加盟する日本新聞協会の新聞倫理綱領には、次のように「品格と節度」を制定している(太字は筆者)。
公共的、文化的使命を果たすべき新聞は、いつでも、どこでも、だれもが、等しく読めるものでなければならない。記事、広告とも表現には品格を保つことが必要である。また、販売にあたっては節度と良識をもって人びとと接すべきである。
さきに琉球新報は、杉田水脈氏の「新潮45」の問題が起きた時に、7月27日の社説をこのように締めている(太字は筆者)。
少数者の人権を尊重し、異なる価値観の人々を受け入れる多様性ある社会を目指すのが国会の役割だ。一議員の問題で済まされない。
杉田論文の質の低さについてはおそらく琉球新報と筆者の見解は変わらないし、けさの社説と単純な比較はするつもりもないが、政治家に対し、「異なる価値観の人々を受け入れる多様性ある社会を目指す」ことを要求している立場からすれば、弔辞をすべて嘘つき呼ばわりし、葬式にも来るなと言わんばかりの排他性やヘイトはどうなのだろうか。
念のため、繰り返すが、批判するのは構わない。しかし表現ひとつで、足元をすくわれかねない怖さを報道していながら、本質を理解しているのだろうか。各種世論調査で自民党の沖縄県内の支持率は2割はある。自社の論調と異なる価値観の読者もそれなりにいるわけだから、もう少し多様性に配慮し、冷静な筆致を望みたい。