ジャマル・カショギ記者の殺害をめぐりサウジのムハンマド皇太子とトルコのエルドゥアン大統領が厳しく争っているが、この争いは、オスマン帝国の滅亡から不在だったイスラム教スンニー派の盟主をめぐる最終決戦なのである。これは、安田純平氏の事件を理解するためにも有用なので、拙著「世界と日本がわかる 最強の世界史」などから抜き出して、ミニイスラム教帝国史を紹介しよう。
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いまや青息吐息のイスラム国(IS)の指導者はカリフという肩書きを名乗っている。アラビア語でハリーファ(継承者)というイスラム教世界の世俗を超越した最高指導者のことだ。よく使われる王者の称号であるスルタンやアミールより格上だ。
現在では、モロッコの国王が同義のアミール・アル=ムーミニーンを名乗っているが、普通にはオスマン帝国のスルタンがカリフでもあると称していたのが最後とみなされている。
7世紀頃の中東は、東ローマ帝国とササン朝ペルシャの二大勢力に挟まれていた。この対立のために地中海とインド方面の通商路が遮断されたので、シリアからアラビア半島の西部をイエメン方面に至るルートが栄えた。
この道の中間で栄えたカーバ神殿を中心とした宗教・商業都市がメッカであり、覚醒した市民たちが、ユダヤ教やイスラム教の影響のもとに創り出した宗教がイスラム教である。
ムハンマド没後、4代目までを正統カリフ時代(632~661)といい、それに取って代わったのが、メッカの有力者出身でシリアを地盤にしたウマイヤ朝である(シーア派はウマイヤ朝を認めていない)。
ウマイア朝(661~750)ではアラブ人が特別扱いされたが、反発するペルシャ人らの支持を受けてムハンマドの叔父の子孫が立てたのがアッバース朝(750~1258)で、イスラム教徒なら民族にかかわらず平等に扱った。
10世紀になるとアッバース朝は衰退し、1055年 にセルジューク・トルコに征服されたが、形式的には存続した。十字軍の時代である。しかし1258年にモンゴルによってバグダードは陥落させられ、カリフはエジプトに亡命したが、1518年にオスマン帝国がエジプトを支配下に治めたのでカリフは廃された。
第1次世界大戦でオスマン帝国はドイツやオーストリアの側に立った。その状況の下で起きた事件が、アラブの自立とシオニズムの勃興である。このほかに、アルメニア人虐殺事件やギリシャ問題があるが、それについては、回を改めて解説したい。
オスマン・トルコともいうが、正式にはアーリ・オスマン(オスマンの家)で、トルコという民族名は入っていなかったし、もともとは、「トルコ人意識」もなかった。
ところが、ヨーロッパにおける国民意識の高揚に影響を受けて、トルコ人のなかで民族意識が芽生え、それが、トルコ語などの強制に結びつき、かえって、オスマン帝国の弱体化を招いたのだ。そして、ケマル・アタュルクの指導で第一次世界大戦中にオスマン帝国を倒して生まれた現在のトルコ共和国は、極度に反宗教的で民族主義的な国である。
ここでは「宗教政党」が一切認められない。しかし、実質的にはイスラム色の強いエルドアン大統領の公正発展党が現在は政権をとったことにより、トルコ民族主義からイスラムの盟主をめざす路線に舵を切っている。
第1次世界大戦のとき、イギリスはアラブ民族主義を煽り、アラビアのロレンスの工作で、ムハンマド一族の子孫であるハーシム家によるアラブ人国家をつくってメソポタミアからアラビア半島を治めさせようとしたが、ワッハーブ派という保守的でイスラム原理主義的な宗派を信仰するサウド家のアブド・アルアジーズ・ブン・サウードが半島では優勢となり、アラブの盟主でなく聖地の守護者としての地位で満足したサウジアラビア(サウド家のアラビア)が1932年に成立した。
しかし、現在の皇太子であるムハンマドは、開明的である一方、アラブの盟主となる野心を隠さず、イエメンやカタールを圧迫している。
ここに、シーア派が支配するイランが、シリアのアサド(アラウィー派というシーア派に似た宗派)やイラク、カタール、イエメンに影響力を行使している。アラブの春の原動力となったムスリム同胞団やパレスティナのハマスもスンニー派だが、イランに近い。
というわけで、トルコ、サウジ、イランの三つ巴のサバイバルゲームが繰り広げられているのである。
そのなかで、アメリカはサウジに肩入れしていたわけであるが、今回のジャーナリスト殺害事件を機に、猛然とトルコがトランプへの接近を試みているというのが図式である。