生命力というもの

日本が誇るべき偉大な哲学者であり教育者である森信三先生は、生命力というものに関し、例えば「偉人と言われるほどの人間は、何よりも、偉大な生命力を持った人でなくてはならぬはずです。真に偉人と呼ばれるためには、偉大な生命力が、ことごとく純化せられねばならぬのです。生命力の大きさ、力強さというものを持たない人間は、真に偉大な人格を築き上げることはできない」と述べておられます。

あるいは、『読書というものは、われわれ人間にとっては、「心の食物」ともいうべきものですから、もしある人があまり読書をしなくなったとしたら、それは食物をとらなくなった人間と同様に、その人の生命力の衰えた何よりの証拠といってよいでしょう』と言われています。

此の生命力につき森先生は他にも様々述べておられますが、その弱さが齎すものということでは次の言葉も残されています――人間が嘘をつくというのは、生命力が弱いからでしょう。勤勉でないというのも、生命力の弱さからです。また人を愛することができないのも、結局は生命力の弱さからです。怒るというのは、もちろん自己を制することのできない弱さからです。(中略)畢竟するに生命力の弱さからです。

生命力というのは、言ってみれば骨力(こつりょく…包容力・忍耐力・反省力・調和力等)と非常に関わっていて、強い気を齎してくれる源泉だと私は思っています。ですから森先生が上記指摘される通り、此の生命力が弱い人間ほど確かに、勤勉でなかったり怒り易かったり愛し方が中途半端であったりするように感じます。また、生命力が強い人は何ら誤魔化しの類なく、基本嘘をつきません。それは、唯々自分の良心に顧みて「俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じず」の精神の基、自分が正しいと信じることをやっているだけですから、そもそも嘘をつく必要がないのです。

松下幸之助さんは「人間には二つの生命力がある」とされ、その一つに生物として当然持っている「生きようとする力」、そしてもう一つに「使命を示す力」を挙げておられます。後者は人間ならではのもので、自分に与えられた使命あるいは天分・天役・天命といったものを示す力が与えられていると言われるのです。私は、自分が天から与えられた使命を自覚し、その使命を果たそうという努力と、それによる成果こそが人間として価値あることではないかと思っています。

最後に、明治の知の巨人・安岡正篤先生の言葉を紹介しておきます――生命力はいかにして強くなるか。それはあくまでも根気のある辛抱強い日常の自律自修に由(よ)る。鍛錬陶冶(たんれんとうや)に依(よ)る。意志と知能と筋骨との意識的努力、心臓・血管・内分泌腺(ないぶんぴつせん)その他生理的全体系の無意識的努力、自己に規律を課し、自己を支配する修練を積んで始めて発達する。安逸(あんいつ)と放縦(ほうじゅう)とは生命の害毒であり、敵である。

こうした先哲の言を読むにつけ、本当に強い生命力を持つということは大変困難なことだと思います。

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