「ロシア革命」を読み違えたバチカン

ロシア革命(10月革命)から101年目を迎えた。歴史の節目(100年)が過ぎたこともあって派手な記念イベントは少なかったが、外電によるとベラルーシの首都ミンスクで101年革命記念集会が開かれ、そこに集まった共産主義者たちが祝ったという。第一次世界大戦の休戦協定発効から100年を迎えた今年、世界各地でさまざまな追悼イベントが開催されたが、大戦中に勃発したロシア革命の歴史的意味についても再考する必要があるだろう。

▲バチカン法王庁の夕景(2011年4月、撮影)

1914年に人類史上初の世界的な戦争、第1次世界大戦が勃発し、欧州全土で多数の犠牲者がでた。政治指導者、知識人、宗教家たちは大きな衝撃を受け、ローマ法王ベネディクト15世(在位1914~22年)は大戦の終焉を訴えて奮闘したが、戦争の火は欧州全土に拡大していった。

ところで、ウラジミール・レーニンが主導したロシア革命(1917年)が起きた時、その無神論的世界観にもかかわらず、ローマ・カトリック教会の総本山バチカンでは共感する声が聞かれた。バチカン関係者の中にはロシア革命に心を惹かれ、一種の期待すらあったというのだ。

バチカンで14日から16日の間、歴史学法王委員会とグレゴリアン法王庁立大学が第一次世界大戦について国際会議を開催したが、歴史学者で同大で教えるロベルト・レゴリ神父は、「バチカンでは新しい世界が新しい可能性をもたらすという風潮が強かった。カトリック主義はロシアでは余り広がっていなかったが、レーニンの革命によってロシアの政情が変われば、宣教の絶好チャンスとなると考えた」という。

バチカン聖職者の中にはロシア革命に“神の手”を感じ、それを支援するという動きも見られた。しかし、時間の経過と共に、ロシア革命が理想社会の建設運動ではなく、多くの政敵を粛正し、一部の革命勢力だけが特権を享受する暴力革命であることが明らかになった。バチカンは時代の動きを読み違えていたわけだ。

バチカンは当時、1861年に建国されたイタリア王国との関係で苦慮していた。ピウス11世時代の1929年になってイタリアとバチカンの間でラテラノ条約が締結されたが、それまでバチカンは政治的には混沌とし、無力な立場だった。

第一次世界大戦後、ロシア帝国ばかりか、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国といった大国は次々と姿を消し、米国、英国がその影響力を広げていった。バチカンは世界の激変の中、どのような役割を果たすべきか迷っていたわけだ。

話をロシア革命に戻す。レーニンの下には多くのユダヤ系ロシア人がいた。それを嫌ったスターリンは後日、ユダヤ人指導者を追放し、粛清していった。興味深い点は、世界最初の無神論世界観の共産主義者社会の建設にユダヤ系指導者が大きな役割を果たしたという事実だ。

ユダヤ人のイエスは2000年前、ユダヤ社会の指導者たちに迫害され、十字架で処刑された。「復活のイエス」からキリスト教が誕生し、その教えは多くの殉教の歴史を経ながら古代ローマ帝国で公認宗教となった。しかし1054年にキリスト教は東西両教会に分裂(大シスマ)。現在のロシアには東方教会が伝達され、ロシア正教会が広がっていった。そして1917年、ロシアで唯物思想の無神論国家を目指す社会主義革命が発生した。その背後に、2000年前イエスを殺害したユダヤ民族の末裔たちの影響があったというわけだ(「ユダヤ民族とその『不愉快な事実』」2014年4月19日参考)。

共産主義世界観はキリスト教世界観を土台として構築されていったとよく言われる。キリスト教ではイエスがメシアであり、人類の救世主だが、共産世界では共産党が指導し、労働者が「選民」とみなされた。ただし、共産主義世界の歴史を振り返れば、実際は共産党の一党独裁であり、共産指導者の強権政治であった。

多くの若者たちが1960、70年代、共産主義運動に走ったが、その一方、キリスト教伝道師に路上で伝道される若者たちが多数出てきた。両者とも「理想社会の建設」への思いがその根底にあった。前者は共産主義運動であり、後者はキリスト教信仰だった。そして両者は同じ畑に植えられ、異なった方向に成長していった。

現代の世界は第一次世界大戦後の状況によく似ている。既成の秩序、価値観は揺れ、目指すべき方向性が見えない。バチカンはレーニンのロシア革命を一時的とはいえ「神の地上天国建設」の槌音と受け止めた。同じ間違いを繰り返してはならない。時代の流れを読み違えてはならないのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年11月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。