「立憲主義」が「民主主義の脅威」を招き入れる --- 高山 貴男

2014年7月に集団的自衛権の行使を限定的に容認する憲法解釈の変更、そして2015年9月の安保法制可決より日本では護憲派を中心に「立憲主義の破壊」が喧伝されている*1

立憲民主党公約集より:編集部

この影響は政界にも及び「立憲主義を回復させる」を公約に掲げた立憲民主党が野党第一党になったほどである。

護憲派、リベラル派、立憲民主党支持者などから成るいわゆる「反安倍勢力」によると安倍政権下での「立憲主義の破壊」により現在の日本はまるで民主主義が破滅した状況にあるようである。

周知のとおり2015年の安保法制可決以来、2回の国政選挙(2016年7月、2017年10月)が実施されている。

国政選挙が実施されているのに「民主主義の破滅」を主張する姿勢には当惑させられるし国政選挙ではないが国政に重大な影響を与える都議選(2017年7月)では安倍首相の応援演説に対し妨害活動が行われ、これに対し朝日新聞は「一般市民の声」として「有権者の意思を表すのがどうして演説の妨害なんですか?」*2を紹介するなど選挙妨害を批判どころ容認するような姿勢を示した事実の方が民主主義にとっては問題である。

要するに民主主義を動揺させているものは安倍政権から発せられているのではなく、いわゆる「反安倍勢力」から発せられているのはないかと疑わざるを得ない。

素朴な疑問として「立憲主義の破壊」によって何か具体的な悪影響があったのだろうか。特に我々、一般市民の日常生活にどのような悪影響はあったのだろうか。筆者がこだわりたいのはこの「日常生活」への悪影響についてである。

立憲民主党は綱領で「立憲主義を守り、草の根の民主主義を実践しています」*3と明記しており、そして「日常生活」は立憲民主党が言う「草の根」に間違いなく含まれる。

「草の根の民主主義を実践」を主張している政党が「立憲主義の破壊に伴う国民の日常生活への悪影響」を把握していないはずない。

だから枝野代表は「立憲主義の破壊」に伴う国民の日常生活への悪影響を包み隠さずに語るべきではないか。

語らなければ「立憲主義」を政権批判の「方便」として使用しているだけと言われても仕方がないだろう。

枝野代表から感じられるのは安倍政権との徹底した「対決」姿勢だけである。

「立憲主義」がもたらした「対決」主義

反安倍勢力が喧伝する「立憲主義の破壊」により筆者の日常生活は何も影響を受けなかったが、一方で「立憲主義」が政治の世界で流行したことにより政治的対立は過激さを増した。

「立憲主義違反=民主主義の敵」という構図が導入され、これが国会では野党の徹底した「欠席戦術」、国会外では大規模デモを正当化させている。

もちろん「欠席戦術」と「大規模デモ」は違法ではないし過去にも野党が採った戦術だが、そこに「対話」はなくあるのは「対決」だけである。

「立憲主義」は日本政治に「対決」主義をもたらした。

野党とその支持者の数を考慮すれば55年体制政治を小型に「再現」したともいえる。

もっとも立憲民主党の議席数もかつての日本社会党に全く及ばないし、大規模デモも管見の限りでは高齢者主体である。

55年体制の「演者」だった日本社会党凋落の歴史、高齢者主体のデモという「現実」は立憲民主党の未来を暗くする。何かを切っ掛けにして党勢が劇的に縮小する可能性も否定できない。このように「対決」主義は立憲民主党にとっても不幸である。

雑駁に言えば民主主義とは相手を「敵」ではなく「異論」と評価する制度である。

「敵」は殲滅、存在否定の対象になるが「異論」は相手を尊重し平和的に「説得」する対象に留まる。民主主義に求められているのは「対話」であり「対決」ではない。

もちろんこうした見方は相当に理想主義的であるが立憲民主党は「熟議の民主主義」*4を唱えているのだから同党に「対決」より「対話」を求めることは問題ない。

「熟議」を主張しながら国会で「欠席戦術」を採る立憲民主党の姿勢は国民にその主張と行動に相当な「落差」がある印象を与えるだけだろう。

要するに政局の方便として「熟議」を主張しているだけではないかという疑念を抱かせる。

「対決」主義が招き入れる「活動家」

「立憲主義を回復させる」の名目のもと「対決」主義を採る反安倍勢力の未来は決して明るくない。現に彼(女)らが支持する野党勢力は選挙で勝利していない。とても「政権交代」が射程に入ったとは言えない。

デモの主体となっている高齢者も年月の経過とともに肉体的に衰えデモに参加することも難しくなる。頑張って参加しても長時間の参加は無理だろう。そして何よりも、やや突き放した言い方になるが高齢者主体のデモはやはり「活力」がない。

筆者の懸念は反安倍勢力が「対決」主義に基づき自らの力不足を補うために「敵の敵は味方」理論を安易に採用し素性が知れない「活動家」を政治の場に招きいれるのではないかという点である。

「活動家」は我々が日常を過ごす市民社会から遊離した存在であり、誤解を恐れずに言えば「民主主義の脅威」である。

例えば立憲民主党は結成当初「自前の事務職員が1人もいなかった」*5のであり、「応援」とか「支援」の名目のもと外部から「活動家」が参入しやすい環境にあったと思われる。

そして立憲民主党は来年の参議院選挙の比例代表候補に「おしどりマコ」氏を公認することを決定した。彼女は池田信夫氏の言葉を借りれば「放射能デマの元祖」*6であり「一般市民」ではなく「活動家」に分類される人間だろう。おしどりマコ氏が公認された事実は立憲民主党には「活動家」が参加していることを意味する。

おしどりマコ氏(立憲民主党サイトより:編集部)

「対決」主義はシンプルだから参加の敷居も低い。一方でそれは思わぬ勢力の参加も招いてしまう。

残念ながら立憲民主党の支持率が5~6%程度*7に過ぎない「現実」を考えればこれからも同党は「対話」ではなく「対決」主義を採り続ける可能性が高い。

要するに国会内では「欠席戦術」を採り審議を停滞させ国会外では素性が知れない「活動家」を含むデモの大動員を通じて安倍政権に圧力を加えるのである。

この圧力に安倍政権が抗しきれず打倒された先には何が残るだろうか。

おそらく反安倍勢力内で政権打倒の「論功行賞」が行われ、デモで活躍しただろう「活動家」が国政に関与するのではないか。

「活動家」が「内閣官房参与に就任し内閣官房長官への『助言』を通じて内閣人事局を動かし官僚を統制する」という可能性もある。これがどれだけ恐ろしいことか容易に想像できるのではないか。

まさに「立憲主義」が「民主主義の脅威」を招き入れるのである。

こうした事態を防ぐために立憲民主党に求められていることは「対決」から「対話」への路線転換である。

そして路線転換の「最初の一歩」として憲法審査会に出席してみてはどうだろうか。

高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員

注釈
*1: 国民安保法制懇 設立宣言 2014年5月28日
*2: 「演説、黙って聞くべき? ヤジは意思表示か選挙妨害か」朝日新聞 2017年10月18日朝刊
*3: 立憲民主党 綱領
*4: 同上
*5: 「枝野幸男の真価」113頁 2018年 毎日新聞取材班 毎日新聞出版社
*6: 「おしどりマコは放射能デマの元祖」池田信夫 2018年9月30日
*7: NHK世論調査より:立憲民主党支持率
  2018年9月 4.8%
  2018年10月 6.1%
  2018年11月26日時点 6.2%(11月9~11日で集計)