20歳の私が描いた『男という生き物』

突然ですが、ひとつ詩を紹介します。

『時雨』 詩:北原白秋

時雨は水墨のかをりがする。
燻んだ浮世絵の裏、
金梨地の漆器の気品もする。
わたしの感傷は時雨に追はれてゆく
遠い晩景の渡り鳥であるか、
つねに朝から透明な青空をのぞみながら、
どこへ落ちてもあまりに寒い雲の明りである。
時にはちりぢりと乱れつつも、
いつのまにやら時雨の薄墨ににじんで了ふ。

私は学生時代、京都大学男声合唱団の学生指揮者を務め、大学生活の大半を合唱と麻雀に捧げました。男声合唱とは、読んで字の如く、男だけで歌う合唱のことです。私は、指揮者になった最初の演奏会の曲目に、上記の詩を含む詩に、当団OBの多田武彦氏が曲をつけた『水墨集』を選びました。

これは私見ですが、混声合唱は色鮮やかで壮大な世界からありふれた日常までを表現出来、女声合唱は天使も悪魔も祈りも怨念も表現出来ます。では、男声合唱は?

私の答えは『男という生き物の心情』を表現出来るです。私は、男声合唱は水墨画に似ていると思います。水墨画は、墨の濃淡だけで描く、言って見れば単純な画です。一方、男という生き物も、所詮白から黒の世界を出られない単純な生き物です。

しかし、一見単純に見えて、水墨画には奥深さがあるように、男には男なりの奥深さがあるのです。その奥深さの中身は、不器用さ、女々しさ、一途さ、真摯さ、真っ直ぐさ、哀れさ、やるせなさ、はかなさ、意地っ張りさ、などなどです。

私は、こういった『男の想い』を表現したくて、男声指揮者になりました。あれから20年が経過しました。当時20歳の青二才が見ていた水墨の世界と、倍の月日を生きた今になって見える世界は、全く違うかもしれません。

私は気管切開によって声を失ったので、歌うことは出来ませんが、指揮なら出来るかもしれません。いつか当時のなじみのメンバーで、音楽を奏でることが出来たらいいなと思います。


この記事は、株式会社まんまる笑店代表取締役社長、恩田聖敬氏(岐阜フットボールクラブ前社長)のブログ「片道切符社長のその後の目的地は? 」2018年11月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。