現在の日本でリベラルを自称する者は例外なく「護憲派」であり「リベラル=護憲派」であることは明白である。護憲派の最大の関心は憲法9条であり、彼(女)らにとって憲法9条を守ることこそが「護憲」であることは言うまでもない。
さて、護憲派が憲法9条を守る理由は「憲法9条があったから戦後日本は平和だった」という考えが根底にあるからである。
護憲派の憲法9条論をより踏み込んで読むと「9条の『武力によらない平和』の理念」(1)といった類の言説で憲法9条を理想主義的解釈していることが確認できる。
そして言わばこの「9条の理想」を基礎に日本国憲法の「先進性」が強調され、護憲の必要性が主張される。
こうした「武力によらない平和」とか「非武装」の主張を聞くとたちどころに自衛隊と日米同盟の名を挙げ「現実」を主張する論者が出てきて、護憲派を批判、場合によっては嘲笑する。護憲・改憲の論議は「理想」と「現実」を巡る議論と置き換えても良い。
果たして理想と現実は交わらない対立関係にあるものなのだろうか。
「理想」と「現実」の対話を求めた高坂正堯
戦後の平和論議ではアジア・太平洋戦争への反動と憲法9条2項の簡潔な表現の影響により「非武装中立」論が更盛した。国際政治において特定の陣営・国家にコミットすること自体、「戦争に巻き込まれる」恐れがあり、核兵器という究極兵器の誕生により核武装はおろか通常兵器の整備すら「焼石に水」のような評価を受けた。
もちろんこれら主張には「現実」主義者から反論もあったが、その「現実」主義自体が批判された。
この「現実」主義を巡っては戦後の代表的進歩的知識人たる丸山眞男の「『現実』主義の陥穽」が有名である。丸山は「現実」主義について次のように述べる。
「普通『現実』というときはもっぱら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。」(2)
更に続けて
「いうまでもなく社会的現実は極めて錯雑し矛盾したさまざまの動向によって立体的に構成されていますが、そうした現実の多元的構造はいわゆる「現実を直視せよ」とか「現実的地盤に立て」とかいって叱咤する場合にはたいてい簡単に無視されて、現実の一つの側面だけが強調されるのです。」(3)
丸山は日本では「現実」という言葉が異論を屈服させ議論を制し「現実」が全体を引きずるということを指摘している。
しかし、ここで注意が必要なのは丸山の批判は「現実」という言葉の「意味」ではなく「用法」についてである。丸山が指摘した「既成事実への屈服」で重要な点は「既成事実」の部分ではなく「屈服」を相手に強いる議論の態度である。
丸山の「現実」主義批判で垣間見えるのは相互尊重のディベートを忌避する日本の議論文化の問題である。
論を戻そう。
戦後、理想主義が全盛だった頃、それに一石を投じたのは国際政治学者の高坂正堯氏である。氏は中央公論に「現実主義者の平和論」を発表し論争を引き起こした。
「いかにわれわれが軍備なき絶対平和を欲しようとも、そこにすぐに到達することはできないということである。先に述べたように軍事力は基本的な役割を果しているのだから、それを簡単に否定してしまうわけにはいかない。」(4)
高坂は「軍備なき絶対平和」をあくまで政治上の「目的」とし、その達成「手段」は別問題と位置づけ次のように述べる。
「手段と目的との間の生き生きとした会話の欠如こそ、理想主義者の最大の欠陥ではないだろうか。」(5)
このように高坂が求めたのは「理想」と「現実」との対話である
戦後の平和論議に象徴されるように日本では「理想」と「現実」は対立関係に見られがちだがこれは正しくない。
「理想」と「現実」は密接に関係している。もっと言えば「理想」と「現実」は直結している。
「理想」と「現実」の関係は時間軸で表現した方が理解しやすい。「理想」は未来にしかなく「現実」は現在にしかない。「未来」と「現在」は直結している。「現在」の行動は「未来」に影響を与える。現在の現実の行動の蓄積が未来の理想を作るのである。
「理想」とは「現実」を意識してこそ達成されるのである。「現実」を意識しない「理想」は「空想」に過ぎない。
憲法9条の改正は「9条の理想」に反するのか?
この「理想」と「現実」の関係を憲法論議に充てはめると次のようになる。
護憲派が目指すのは憲法9条に基づく「武力によらない平和」であり、これは「未来」にしか存在せず、これを実現するためにも「現在」を冷静に見つめる必要がある。
「未来」と「現在」は繋がっているのだから「武力によらない平和」という「未来」を実現するためにも「現在」において憲法9条2項を削除するという考えは必ずしも否定されない。「武力によらない平和」の実現のために一時的に武力を保有・行使するという考えも成立する。
具体的には憲法9条2項を削除し「国際標準」に基づく軍事力の保持・行使を認めたうえで「武力によらない平和」を最終「目的」として設定し、その達成「手段」として現実的な外交を展開し「全世界の国が軍事力を一斉放棄する」という国際環境を成立させる。
そしてその時に憲法9条2項を復活、憲法に再明記し日本が各国に先行して武力を復活しないようにすれば良いだけである。
この場合、日本は国際社会において道義的優位に立つことができ、各国に対しに憲法9条2項的条項の憲法への採用(明記)も説得力を持って要求することができる。これが実現するのが50年後なのか100年後なのかはなかなか想像できないが、要するに軍事力の保持・行使は「臨時」的措置と位置付けるのである。
このように護憲派が目指す「武力によらない平和」は必ずしも憲法9条を必要としない。「9条の理想」は憲法9条を常に必要としていないのである。
このことから憲法9条の改正(=9条2項削除)は「9条の理想」に反しない。憲法9条2項が削除されれば「武力によらない平和」が実現できないという思考は明文に縛られ憲法を「聖典」視したものである。「聖典」視される憲法はもはや憲法とは言えない。
だから「9条の理想」を実現するためにも憲法9条2項を削除し議論の余地がない次元での軍隊の保有、フルスペックの集団的自衛権の行使を認め国際協調の精神に基づき国際連合のPKO活動を始めとした各種活動に積極的に参加することが求められているのではないだろうか。
「憲法9条を守れ」と叫ぶだけでは誰も救われない。救われるのは護憲派だけである。
護憲派の主張は言外に「平和より9条を守りたい」とか「日本人は憲法9条のために犠牲になっても仕方がない」の域に達しているとの印象すら受ける。
確実に言えることは護憲派に平和論議の主導権を握らせたら我々は「9条の理想」を見ることは決してないということである。
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高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員
注釈
(1)「戦後日本の歴史と憲法の岐路に立って」 9条の会 2017年10月5日
(2) 丸山眞男「新装版 現代政治と思想と行動」172頁 未來社 2006年
(3) 同 上 173頁
(4) 高坂正堯「海洋国家日本の構想」 15頁 中央公論新社 2008年
(5) 同 上 16頁