リスクとは
以前から「安全」を図る基準である科学的・客観的確率計算と「安心」の根拠となる主観的確率計算の違いと、それらが「政治」の現場に及ぼす影響をテーマとして文章を書きたいと思っていたが、内容的に少々退屈なものになりそうだったので久しく棚上げしていたのだが、先日池田信夫氏がブログ記事でこの話題に触れていたので、せっかくの機会なので「確率と政治」というテーマでブログを書くことにした。
リスク分析とは「ある事象(例えば事故)が発生する確率とその事象が発生することによって起きる影響の度合い(例えば被害の大きさ)」を確率的に分析することである。
池田氏の使っている数式で表すと
リスク(期待値)=ハザード(被害)×確率
となる。池田氏はこの期待値としてのリスクの意味を多くの人が理解できていないことを指摘しており、なぜ多くの人が上記の式のような確率に基づいた判断ができないのかは自明ではないが、「恐怖」という感情によるバイアスが一因ではないかと分析している。
しかし私の考えでは、池田氏のこの分析は人々がおこなっているリスク分析の一部でしかなく、もっと精密な分析が可能であり、かつその分析により人々の主観的確率と政治の役割という新たな分析が可能になるはずである。
客観確率と主観確率
最初に今後の分析における客観確率と主観確率の定義をしておこう。ここでの客観確率の定義は簡単に「事象の発生確率を科学的・統計的に導き出したもの」としておこう。例えばサイコロを一回振って6が出る確率が1/6というのが客観確率である。先ほどの式を書き直すと
客観的リスク評価(期待値)=客観的ハザード(被害)推定×客観確率
となる。つまり被害の大きさを科学的に推定して、さらにその発生確率を客観確率に基づいた「確率」として、両者の積によって得られる「リスク=危険度合い」ということである。一般的にリスクとはこの定義に基づくものである。
一方主観確率はそれぞれ個人が独自に推測した「確率」である。サイコロを一回振って偶数の目が出る確率を(客観的確率では50%だが)、勘だかツキだか自身の経験だかで今回は75%以上と推定(何を根拠にしているかは人それぞれだが)するのが主観確率である。サイコロの例だと少しバカっぽく思われるかもしれないが、実際は多くの事象は客観確率の推定が困難なため、確率自体を「推定」する必要があるような場合なども主観確率に基づいて人は判断をする。
議論を単純化するために以下では「ハザード(被害)」に関しては客観基準も主観基準も同一の値とする。この前提により、リスク判断は確率に依存することになり、客観的なリスク分析と主観的なリスク分析の違いは客観的確率推定と主観的確率推定の違いに起因することになる。また本来であれば、リスクとは様々なシナリオにより複数の事象を分析する必要があり、小さい被害が発生するケース、大きな被害が発生するケースとそれぞれに応じて個別に被害と確率をそれぞれ計算するのだが、ここでは話が複雑になるので一つのシナリオのみ(すなわち一つの被害規模に対して一つの確率)の分析をおこなう。
また、通常「判断」においてはリスクに対する選考度合いを示す効用関数を導入する場合が多いが、議論の本質を変えずに簡略化するためにこちらも割愛する。
個人の主観確率分析をモデル化する
客観確率を計算する方法はそれぞれの事象に対してそれなりの科学的(含む統計学的)アプローチでおこなう。このため特殊な事象の客観発生確率を個々人が計算することは難しい。実は複雑な事象の発生確率を正確に計算するのは専門家にとっても難しく、多くの場合計算を可能にするための前提や単純化を加えるので、実社会においては客観確率は一つの指針に過ぎないことが多い。しかし客観確率自体を計算できないとなると議論が進まないので、客観確率は専門家により計算可能という前提で話を進める。
人々は数式は知らなくとも日々何らかの不確実性に対する判断を下す。これらの判断は純粋な「勘」でおこなっているわけではなく、個々人の経験などを踏まえて脳内で自動的に計算され、その結果だけが「直感的」出てくるのであろう。このため、何故危険だと思うのかを理論的・客観的に説明はできなくとも、とにかくなんらかの危険を察知するといった具合にリスク分析をするのが一般的であろう。
このような直感的なリスク分析を客観的なリスク分析の枠組みで再構築してみよう。
- 客観確率を科学的・客観的に導き出される一つの確率の数値とする。
- 主観確率は個々人の経験や分析を通じて導き出される確率の数値であり、次のような方法で計算すると考えてみよう。個々人はそれぞれが複数の確率計算の「推定方法」を持っており、その推定方法に比重(つまり信頼度)を付与している。そして複数の推定方法から得られる各確率値に対する信頼の度合いによる加重平均から主観確率を計算している。
推定方法1に対して一つの比重(w(1))を付与していおり同様に推定方法2に対して一つの比重(w(2))を付与している。N個の推定方法に対してN個のwがあり、w(1)からw(N)の総和は1となる。Pをそれぞれの推定方法による確率とすると主観確率はw(i)×P(i)の和(ただしiは1からN)と定義できる。
また重要点として信頼の度合いは個々人の経験いかんで変わっていくので、時間と政治の影響などにより主観確率は変化する。
主な主観確率推定方法
今度はどのような主観確率の推定方法があるのかを考えてみよう。一つは実は客観確率そのものである。実際に自分で計算しなくとも「専門家の意見」としてこの確率は入手可能である。他にも客観確率(もしくは理論値)を推定するアプローチとしてはサンプルから分析したり、似たような他のケースから分析したりという推定方法は多数あるが、これらも「専門家の意見」から推定することのサブカテゴリと考えても良いであろう。
専門家の意見を信じるかは個々人の自由である。ここへのウエイト付けを1にすれば(つまり専門家の意見を全面的に受け入れる)と主観確率は客観確率と同じ値になる。したがってなぜ多くの人が客観確率に基づいた判断を下さないかと言えば、専門家の意見に対する信頼度が低いということであろう。そもそも専門家の意見を入手していないことも多いのであろうが、分析上は意見を入手していないというのは信頼がゼロ(w=0)ということと同じと考えていい。
2つ目の大きな推定方法は自分自身の経験である。自分自身の経験をサンプルとした統計方法とも言えるだろう。経験したことない事象に対して確率ゼロと間違った推定を引き起こす危険性がある。逆に経験してしまうと少ないサンプル(自身の経験)に基づいて計算する1回の事象の確率を過大に推定してしまう危険性もある。
3つ目は信頼できる組織や社会基盤(主に行政)が推定した確率である。そもそも日常的に我々がすべてのリスクに関して自身での計算や専門的意見を聞かずとも安心して暮らしているのは、さまざまな危険に対して行政が規制等を通じて「安全」を確保している(と信じられている)からである。我々が口にするものの多くには安全基準が設定されており、それらをクリアしているから「安全」であり、だからこそ「安心」できるのである。つまり安全基準を満たすことは客観確率も非常に低い数値であり、主観的確率上はゼロと推定している。
4つ目のカテゴリーは非常に幅広く、その他の信頼できるソースからの推定である。いわゆる「新聞が言ってたから事実であろう」「テレビで言ってたから本当だろう」「XXさん(専門家でないが)が言っていたから大丈夫」といった推定もこの範疇である。「先人の知恵」「親が言ってた」「先生が言ってた」など自身の年齢や判断対象の種類によりソースも変わるだろう。
主観確率と政治課題
多くの政治課題は不確実性を内包しており、単純に「良い」「悪い」という判断でなく、リスクを判断する作業が必要となる。政治家や行政はなるべく客観確率に応じた判断を下すように努力するのだが、選挙(もしくは個別の政策に対する世論調査)となると有権者がそれぞれの主観確率に基づいて判断を下すことになる。
一般的には個々人の経験も総和では大数の法則で客観確率に近くなることが多く、行政が信頼されていてかつ行政が客観確率に基づいて施策を行っている場合、いわゆる「民意」が客観確率と近くなることが多い。
一方で国民全体が非常に大きな被害を受けるような事象を経験すると、個々人の経験が同一のものとなり、主観確率の推定がこの経験に大きく左右される。戦争や原発被害がそれに相当する。逆に高度成長や初めてのバブルを経験している国の人々がより多くのリスクテイクをするのも同じである。
ここからは主観確率のブレにより政治判断が難しくなる事象をみていこう。
そもそもリスク判断で難しいのは確率が非常に低く、被害が甚大であるケースである。とくに数百年に一度のような事象は統計データも十分ないわけで、統計から正確な確率を推測するなどは無理なのである。「1年以内の発生確率が0.001%から0.01%程度」などと言われると誤差の少ない数字に思えるが、推定発生確率が10倍違ってしまうと推定リスクも10倍違ってしまう。このような事象に関して「民意」を問うというのは非常に難しい。
行政に対する信頼が失われている場合も難しいケースである。多くの場合行政は信頼されており、したがって主観確率計算上も大きなウエイトが付与されているのだが、行政に対する不信が発生してしまうとこのウエイトが低下してしまい、自分の経験や専門家、もしくは行政以外の信頼できる人たちの意見を重視せざるを得ない。
豊洲問題に関する考察
例として豊洲移転問題に関する一連の小池都知事の問題をこのリスク分析の観点からみていこう。豊洲問題における重要なポイントは、知事自ら行政に対する不信を煽ったことである。「都の役人は豊洲の問題点を隠蔽している、黙って裏でとんでもないことをしている」といった印象を「地下水質検査」やら「盛り土」の問題を通じて与えていく。結果行政に対する信頼はゼロになり、いくら行政側が「安全基準を満たしている」と言っても都民の不安は払拭されない状態になる。
一方で経験バイアスは今まで特に問題もなかった(と思える)築地の安全性の過大評価につながる(今まで大丈夫だったからこれからも大丈夫、という主観確率の形成につながる)。一方豊洲市場は実績が当然ないのでリスクの発生確率は他の推定に頼らざるを得ない。
つまり、行政に対する信頼(ウエイト)をゼロになるように誘導して、築地は今まで大きな問題を発生させてないという実績に比して豊洲に対する判断は実績がないため個々人の経験から判断できず、結果専門家の意見(客観確率)や他の信頼できる人の情報を基にした推定により主観確率が計算されるようにしたのである。
そして「専門家」と呼ばれる人たちの意見も割れれば、通常ではウエイト付けが低いであろう推定方法でリスクを判断せざるを得ない。おそらく当時は「信じられるのは小池さんのみ」みたいな雰囲気になっていたので、当人が「安全宣言」しなければいつまでも一部の都民の不安が払拭されない状態になってしまった。(もちろん少数派であったろうが、独自に行政からの情報を分析したり、「正しい」専門家の意見にウエイトを置いた個人においては客観確率に近い主観確率が形成できていた)。
当時都知事は豊洲市場に関して「安全であるが、都民からの安心は得られていない」という趣旨の発言をおこなったが、客観確率から導き出される「安全」という結論と主観確率から導き出される「安心」の間にギャップを生じさせたのは他ならぬ小池都知事自身なのであるからマッチポンプといわれても仕方ない手法である。
政治家が行政不信を助長して、不必要に不安を煽り、結果として人々を「リスクがゼロにならないと安心できない」という心理状態(「ゼロリスクの呪縛」)に導くというのは、社会の重要な「信頼と安心」の基盤を破壊する非常に愚かな行為である。
不確実性の高い課題に対する判断における「民意」の活用
豊洲市場の例からも分かる通り、一部の政治リーダーたちはその影響力を駆使して個々人の主観確率の形成において自身に都合よく影響を及ぼすことができる。今回はリスク分析という観点からこのような政治と不確実性の高い課題に対する「民意」の形成をモデルなどを用いて考えてきたが、平ったく言えば「無駄に不安を煽って自身の求心力を高める」という行為は多かれ少なかれ似たような政治手法である。
客観確率の計算が困難なケースや、極端に発生確率が低いが被害が大きい事象(かつ行政不信がある場合)や、経験したことがない事象に関するリスク判断などに関しては主観確率の形成における人々の個人的経験や「信頼できる人」(だが確率推定は不正確な人)の意見などにウエイトが偏り、客観確率とかけ離れた主観確率を推定してしまい、結果的に合理的な判断ができなくなる危険性が高い。
このような状況において、住民投票や世論調査に基づいた「民意」により政策決定することは、合理的でない判断に基づいて政治家が決断をしてしまうという大きな間違いの元である。事象によっては各々が推定する主観確率は、客観確率と大きく乖離することがあり、かつ政治家やオピニオンリーダーと呼ばれる人達によって誘導することも十分可能である。
なんでもかんでも民主的に住民もしくは国民投票で判断すれば良いものではない。有権者が各種の課題に対する判断を委ねられる人を選挙で選び、選ばれた議員たちが客観確率に基づいて合理的判断を下すという政治スタイル(間接民主主義)は決して悪いものではない。
編集部より:このブログは与謝野信氏の公式ブログ 2018年12月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、与謝野信ブログをご覧ください。