天皇陛下の誕生日会見で最も印象に残った言葉は、「人生の旅」「天皇としての旅」だ。戦後の憲法が定めたあいまいな「象徴」という立場を、いかに生身の人間として体現すべきか。それを求めてきたのが、「天皇としての人生の旅」であった。そして、皇后陛下は何よりも得難い伴侶だった。
だが、政治は、社会は、真剣に「象徴」の旅を共有しただろうか。陛下の言葉には常に孤独の寂しさがつきまとう。退位も自らがリスクを冒して口にするしかなかった。
「人生」という生々しい響き、「旅」という不確かな感覚、わずか数年だが皇室担当記者を経験した身として、行間に込められた万感の思いを感じる。
そして、寅さんの温かく、そして寂しい「旅」を連想した。私がかねてから抱いている感覚なのだ。天皇陛下と寅さんには通底する何かがある、と。
両陛下の地方視察に同行し、農家を通り過ぎた。柿の木に枯葉がわずか残り、赤い実が寂しくぶら下がっているのを見た。すぐに思い浮かんだのは映画『男はつらいよ』で見かけた同じような冬枯れの風景だ。
日の当たらないところに光を当てる。それが両陛下が貫いた姿勢だった。貧しい人々、寂しい人々、困難な人々、我々が忘れかけていることに気づかせてくれる。どこにも人情があり、笑顔があり、たくましさがある。人目を気にし、耳障りのよい言葉を吐き、打算のために嘘をまき散らす、そんな虚偽の政治世界とは無縁だった。
寅さんもまた、自分の思いをしのびながら、社会の底辺で暮らす人々に夢と生きる希望を与え続けた。人から誤解され、ののしられることはあっても、悲哀はすべて心にしまい込み、鞄一つを手に田舎道の旅を続けた。
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もう何十年も前のことだが、渥美清が主演した『拝啓 天皇陛下様』(1963年)をビデオで観た時の印象は強烈だった。無学でお人好しで、戦時中、敬愛する天皇陛下に手紙まで出そうとする一兵卒が、戦争後、ようやく幸せをつかみかけたところ、不慮の自動車事故で亡くなる。ラストシーンには
「拝啓天皇陛下様、 あなたの最後のひとりの赤子がこの夜戦死をいたしました」
と字幕が流れる。戦争を断罪する意図を深読みしては薄っぺらになる。底辺の視点から、どこまでも愚直な人間のありのままを描いた作品だった。
当時、渥美清と天皇陛下の取り合わせが奇抜に思えたのは、すでに寅さんのイメージが根付いていたからだ。全く正反対の世界に住んでいる存在に思えた。
渥美清は私生活を一切に明かさず、世間の前では役者一徹を貫いた。彼の他界から3年後、私は仲間の記者2人と、彼の知人友人を通して、ベールに包まれた素顔に迫る計71回の連載記事を書いた。連載は中央公新社から単行本、文庫本としても出版された。タイトルは『拝啓 渥美清様』だった。
もちろん前述の映画を意識した命名だったのだが、その時でさえ、両者を関連付けたことはなかった。ただ、その後の発見を思えば、結果的には奇縁であった。
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2002年夏、両陛下の東欧訪問に同行した。オーストリア・ウィーンでまたまた思いがけず、寅さんの足跡をたどることになった。寅さんは唯一、海外に出かけているが、それがウィーンだった。『男はつらいよ 寅次郎心の旅路』(第41作、1989あ年)。ウィーンで日本人の美人ツアーガイド(竹下景子)に恋をするが、案の定、失恋のン結末で帰国することになる。
ウィーンのシェーンブルン宮殿で両陛下の通訳をした日本人女性は、現地のガイド国家資格を有する語学力の持ち主だった。公務外で雑談をしているうちに、男はつらいよのロケでも山田洋治監督の通訳を引き受け、渥美清とも言葉を交わしたと話してくれた。
彼女は高知県出身で、歌手の夢に破れ、失意のまま単身でシベリア鉄道に乗り、ウィーンにやってきた。その際、たまたま道を尋ねた現地の男性と運命的な結婚をした、という稀有なロマンス談の持ち主である。
渥美清も若いころは不遇で、すさんだ生活を経験した。同じように苦難を経た彼女に対し、「二人とも一回転んで起き上がったんだよ」と言葉をかけたという。私はそのエピソードを聞きながら、まるで寅さんがスクリーンから飛び出してきたようなシーンを思い描いた。
相手の目線で感じ、考える。それは両陛下にも通じているのだ。
(続)
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2018年12月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。