天皇陛下として最後の誕生日会見では、災害被災地への訪問が特に思い出深い出来事として挙げられた。そこは悲しみを共有し、傷をいたわる場であると同時に、再建への営みを励まし、勇気を讃える場でもあった。
「日本のどこかで地震や水害などの災害があると、テレビのニュースからは目を離さなかった」。そんな両陛下の姿を側近から聞かされたことがある。できるだけ早く現場に足を運び、被災者とじかに触れあうことを重んじた。国民の象徴としていかにあるべきか、身をもって示そうとしていた。
皇室担当記者として同行した中で、鮮明に記憶に残っているのは2001年4月、神戸市長田区への訪問だ。1995年、阪神・淡路大震災の直後、両陛下が真っ先に足を運び、特に皇后陛下が車中からガッツポーズをした光景は、だれの目にも印象に残っているだろう。それに続く2回目の訪問だった。
初回、皇后陛下がスイセンをたむけた場所は、すでにスイセン通りと呼ばれ、住民たちが心から再訪を歓迎していることがわかった。両陛下と平屋暮らしていた人々の間に垣根は感じられなかった。遠いところにある象徴ではなく、庶民が手を触れることのできる存在だった。
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震災から8か月後の1995年10月、『男はつらいよ』最終作(第48作)のロケが、全焼した長田区菅原市場で行われ、市場の関係者もエキストラで参加した。被災地でボランティアをした寅さんが1年ぶりにやってきて、営業を再開した商店主らと再会を喜ぶストーリーだ。広場では在日韓国・朝鮮人の祭り「長田マダン」の演舞が続き、復興への願いを託すように六甲の山々が映し出され、終幕となる。
当時、第48作はすでに台本が出来上がっていたが、地元からの強い依頼を受け、山田洋治監督がシナリオを書き加えた。渥美清はがんとの闘病中で、無理を押しての撮影だった。まだ死体が埋もれているかも知れない現場でのロケに躊躇したが、やはり住民の熱意にほだされた。下町人情は東西を問わない。
実は渥美清が亡くなって3年後の1999年夏、私は長田区を訪れ、『男はつらいよ』ロケにかかわる記憶を尋ね歩いた。駅のコンコースには木像の「寅地蔵」が置かれていた。旧菅原市場を、地元の関係者に案内され歩いた。多くの店舗が姿を消し、区画整理が進んでいた。市場の入り口には、「寅さん 勇気と希望 ありがとう」とペンキで書かれた看板が立っていた。
寅さんもまた、弱者に温かい目を注ぎ続けた。
両陛下に同行した長田区視察は、私にとっても2回目の訪問だった。両陛下と寅さんの姿がだぶって見えた。庶民との距離において、まったく差異はなかった。
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『男はつらいよ』は1969年から95年までの26年間、全48作が公開され、1人の俳優が演じ続けた映画シリーズとしてギネスブックにも認定された。その足跡はまた、1人の役者を固定されたキャラクターに閉じ込めることにもなった。『砂の器』の映画館主として渥美清が出演すると、観客は「あっ、寅さんだ」と受け止めた。芸の幅を広げたい役者としては、重い足かせとなった。
渥美清は長田区ロケの翌年に亡くなった。最後の撮影現場で、「ウルトラマンは大変だよね」とテレビの取材に答えたのを覚えている。みんなの前でずっと同じ役を演じ続けなければならない自らの宿命を、ウルトラマンにたとえたのだ。病との闘いはきっと、周囲からの期待に応えるプレッシャーとの闘いでもあったに違いない。
天皇陛下の生前退位に思いを寄せる。
皇室担当記者には毎週、両陛下の公務日程関するレクがあるのだが、ほぼ毎日、びっしりのスケジュールで埋められていた。少しでも空き時間があると、必ず何かの用事を入れないと気が済まない。それが象徴天皇のスタイルだった。寸分も力を抜くことなく、国民に寄り添うことを忘れない。
高齢で体が衰え、従前通りに務めを果たせなくなったときの胸中は察するに余りある。十分に力を果たせなくなったとき、形だけの存在に意味はない。現場に足を運び、身をもって体現してきた象徴としての旅もピリオドを打たなければならない。それが築き上げてきた象徴の姿を守ることになる。
陛下の「旅」と寅さんの「旅」は、どこまでも重なって見えるのだ。
(完)
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2018年12月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。