現在、安倍首相発案の憲法9条に自衛隊の設置を明記するいわゆる「9条加憲案」が話題になっている。もちろん話題と言っても国会で審議されているわけではないが戦後日本の憲法論議を考えればこれは大変な出来事である。
現在こそ自衛隊は「合憲」の存在であることが定着しているが戦後かなりの期間、護憲派から「違憲」の存在とみなされてきた。実際のところ護憲派の「本音」は自衛隊を「違憲」と判断している可能性が高い。また護憲派が自衛隊を「合憲」と判断していたとしてもやはり自衛隊への否定的態度を隠せない。護憲派の自衛隊に対する否定的態度は彼(女)らの発言からも確認できる。
【5・3護憲派集会詳報】清末愛砂・室蘭工業大准教授「改憲で自衛隊が民衆に銃を向ける可能性が増す」 https://t.co/Mc6fvFPJAf
— 産経ニュース (@Sankei_news) 2018年5月3日
護憲派が持つ「反自衛隊思想」
2016年の参議院選挙直前に日本共産党所属国会議員が防衛費を「人を殺すための予算」と表現して世論から反発を受け日本共産党もこの議員を処分した(1)。
現在はともかく戦後かなりの期間この種の言説が一定の「市民権」を得ていたのは間違いない。
裏返して言えば自衛隊は戦後社会において一定期間「市民権」を得ていなかったのである。
それは自衛隊への「差別」と評しても良いだろう。戦後、自衛隊への差別が黙認されてきた理由は戦後特有の空想的平和主義の所産とも言えるが、重要なのはその発言者である。「自衛隊差別」の主体が戦争体験者だった場合、やはりそれは単なる「差別」とは言い切れないのではないか。
戦争体験者が防衛費を「人を殺すための予算」とか「自衛隊は人殺し」と言えばそれは感情的であり支持はできないがやはり一定の説得力がある。
また表現こそ強烈だが「自分と同じ体験はさせたくない」という感情もあったはずである。
しかし戦争未体験者である「戦後生まれ」が同じことを言えば驚くほど説得力はない。ただの中傷・侮辱でありもっと言えば挑発である。自衛隊を挑発してそれに反発した一部自衛隊員が挑発者に対し直接行動に出た場合、その挑発者に同情する国民はどれだけいるのだろうか。ほとんどいないのではないだろうか。
むしろこうした自衛隊を挑発する護憲派が持つの「反自衛隊思想」は政軍関係に不要な緊張を与え有害以外の何者でもない。
「反自衛隊思想」に基づく言説は戦争体験者のみが説得力を持つものであり「戦後生まれ」が無邪気に「反自衛隊思想」を披露しても説得力はなく無意味であるし筆者を含め不快に思う者も多いのではないだろうか。
そしてこうした無意味な「反自衛隊思想」は憲法解釈にも影響を与えている。
戦後のかなりの期間、憲法学者は自衛隊を「違憲」と判断してきた。確かに9条2項の文言を素直に読めば自衛隊は憲法違反と解釈するのが普通である。しかし世論の大勢が変わり彼(女)らは「違憲」の主張ができなくなった。
「憲法を守り、憲法を愛する」日本の防衛そっちのけで護憲布教…過剰左傾、東大法学部系学者「思想」そのままに…弁護士会 憲法学「信仰」 https://t.co/0r5e2ulhrF pic.twitter.com/KaESRvfRQH
— 産経ニュース (@Sankei_news) 2017年10月15日
世論の反応を窺い自己主張を控える姿勢は憲法学の「学問性」に疑問を抱かせるが、それはともかく9条2項の文言が戦後の安全保障の議論を混乱させているのは間違いなく、それを解消するために自衛隊の存在を憲法に明記するという意見が出てくることはなんら不思議ではない。「明文化」はその存在を理解しやすくし議論を円滑化させるし、存在が理解しやすくなれば「統制」にも貢献する。つまり「憲法は国家権力を制限する」という「立憲主義」の点からも有益である。
現在、議論されている9条加憲案もその次元の話に過ぎない。
自衛隊を白眼視することが統制?
このように9条加憲案はなんらおかしいことではないがどういうわけか憲法学者はこれに反対している。そしてその反対理由も興味深い。
彼(女)らによれば自衛隊に「違憲」の疑念をかけ続ける、このこと自体に意味があると言う。例えば憲法学者の石川健治・東京大学教授は「正統性に疑いをかけられた組織は、世間から後ろ指をさされることがないように、常に身を慎むことになります」(2)と述べる。要するに自衛隊を白眼視する「お前らは所詮、日陰者だ」と扱うことが自衛隊統制に繋がるというのである。
しかし前記したように「明文化」は「立憲主義」にも繋がるものである。憲法に明記することで自衛隊統制が困難になるとはどういうことか。石川氏の発言は「憲法は権力を統制する作用がない」と言っているようなものである。
「違憲」を根拠に「お前らは所詮、日陰者だ」といった類の言説で自衛隊員をひるませることができるのは戦争体験者だけである。そしてそれは理論ではなく感情の次元の話である。
当たり前だが「戦後生まれ」の憲法学者が自衛隊に「後ろ指をさす」ことなどできるわけがない。どうしてできると思うのか。自衛隊を「侮辱」「挑発」することが正当だと思っているところが現在の護憲派の限界である。
しかしこうした「反自衛隊思想」は護憲派界隈では依然、有効であるし「無党派層」を意識してそれを表立って出さないが例えば立憲民主党が政権与党になった場合「反自衛隊思想」を全面に出す可能性は高い。そしてそれが社会に無用な緊張を生み出すのである。
想像したくないこと
懸念すべきことは護憲派のような「反自衛隊思想」の持ち主が日本有事の際にどう振る舞うかということである。率直に言って自衛隊の防衛活動を妨害するのではないかという疑念を抱かざるを得ない。要するに「反自衛隊思想」が「反自衛隊活動」に転化するのである。
想像したくないが護憲派の妨害活動により自衛隊が日本有事に有効に対処できず、その結果、日本人に死傷者が出た場合、彼(女)らは責任を持てるのか。
より踏み込んで言えば「反自衛隊思想」を持つ護憲派の存在自体が日本有事を誘発するという考えも成立しよう。不謹慎を承知で言わせてもらうならばそれは「侵略の呼び水」に他ならない。もちろん護憲派当人達はそういう意思はないだろうが、その発言・行動を見る限り「侵略の呼び水」の役割を果たしていると言わざるを得ない。
言うまでもなく「憲法9条を守る=平和を守る」ではない。もしかしたら憲法9条を守らない方が平和に繋がるかもしれない。平和は尊いものだから憲法9条に違反してでも守るべきである。
果たして憲法9条のために犠牲になる人間は護憲派を除いてどれほどいるのだろうか。
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高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員
注釈
(1) 産経フォト 2016年6月28日
(2) 中日新聞 2017年5月21日