なぜ「昔はよかった」のだろうか?

26日の日経にエコノミスト誌からの転載で「懐古主義が台頭する意味」という長文の寄稿があります。要は世界各地で昔を懐かしみ、その時を取り戻そうという動きがあるがそれはなぜだろうか、というものです。

なぜ我々は昔のように楽しく気楽な時代から離別し、新参者の移民や外国人労働者と接し、高い税や社会保険料を払い、ハラスメントに気を付けなくてはいけないのだ、自分は何も悪いことをしていないのに…ということでありましょうか。

記事によるとその意味とは「ノスタルジアは今の激動の時代には、悲観主義者にも楽観主義者にも船のアンカーのようなある種の安らぎを与える」ものであり、「こうした時代に人々は安心と自尊心を再確認しようとノスタルジアに吸い寄せられる」とあります。一方で、「抗議活動を繰り広げる人々は、(中略)抵抗で改革が停滞すれば、落ちぶれていくとの感覚は強まる可能性がある。しかもノスタルジアに浸る人々が求める自尊心は、往々にして排外主義をあおる」とその危険性も指摘しています。

読み応えのある記事だと思います。

どんな方もふと昔のもっとシンプルな時代を思い起こすことはあるかと思います。「あの頃は楽しかったよなぁ」であります。社会のルールも規範も今ほどうるさくなくて、賢い人もヤンキーもみんなもっとストレートだったと思います。しかし、世の中が複雑怪奇になり、グローバル化が進み、好む、好まざるにかかわらず社会が勝手に進化し、自分も変わらなくてはいけないというプレッシャーをもらうことになります。

その中で10人が10人、皆、社会の変化についていければよいですが、必ず落ちこぼれはいるものです。やれ国際化だ、情報化だ、ITにAIだ、コンプライアンスにキャッシュレス、あとLGBTもあるぞ、とくれば「はぁ、そして次は何?」となるでしょう。いわゆる「2対6対2の法則」に当てはめれば怒涛の変化に対して2割は先を走り、6割はついていき、2割が落第することになります。

日本のように高齢化社会が進んでいるとひょっとすると「2対4対4」ぐらいの感覚かもしれません。世界でも人々が声を上げ、デモを行い、シュプレヒコールをするのは「もう、俺はついていけないよ」という「ムンクの叫び」そのものではないでしょうか?

この2割なり4割の「脱落者」は学校の試験であれば点数という明白なもので判断されますが、一般社会においてそれに及第しているのかどうかは分かりません。分らないがゆえにボーダーラインの人たちは悩みを抱えます。それがストレスになり、その発散のために奇妙な行動に転嫁する人もあります。日本における社会面を飾る数多くの馬鹿々々しい事件からほぼ理由なき殺人事件までその動機は薄弱でやってから「しまった!」と気が付くケースも多いように感じます。

あるいは高齢者が引きこもりのごとく家から出ず、孤独死するケースも多いですが、外とのやり取りに恐怖を感じている人もいるのでしょう。

私は確かにいまだにいろいろなものに興味もあり、調べる熱意もあり、行動する力もあります。ですが、昔とは明らかにその動きは変わってきています。かつてはもっと無謀だったし、アグレッシブでギラギラしたものがありました。が、今は社会の変化の切り口があまりにも多く、防戦状態と言ってもよいでしょう。ある分野でリードするにはかつての10倍も100倍ものエネルギーを要するのです。

自分が変わったなと感じるのは食べ物の嗜好にも出てきます。何か新しいものを求め続けていたあの時代から普通の居酒屋で焼き魚がうまいと感じるようになるのです。おにぎりが食べたいって真剣に思うのです。(海外でおにぎりは案外食べられないのです。)

では止まらない社会の変化にどう対応したらよいのでしょうか?私は「ケセラセラ(=なるようになるさ)」でいいのだろうと思います。分からなければ聞く、それで恥ずかしいと思うとストレスになるので「あぁ、親切な人に当たってよかった」と思うぐらいの感覚でいいのです。

変わる社会を阻止するのは果たして誰のためなのだろうか、と考えた時、自分たち、変われない世代の自我な抵抗ではないか、と思えば若い世代にはその変化を必要としているのだ、と考え直し、じゃぁ、その時は助けてくれよ、と気楽になるほうが少なくとも私の精神衛生上はより健康的な気がします。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2018年12月26日の記事より転載させていただきました。