私の存在という質問:在米19年、米スポーツ界の本質を理解

新年明けましておめでとうございます。

2019年1月1日でトランスインサイト株式会社は設立13周年を迎え、14年目の年に突入しました。個人的には在米生活も19年目になります。

Mike Morbeck/flickr:編集部

渡米当時、こんなに長くアメリカに住むことになるとは、文字通り夢にも思いませんでした。振り返ってその理由を考えてみると、まずスポーツビジネスの先進的なノウハウを間近に見ることができ、これが業務上の差別化要因になっていることが挙げられます。感覚としては、これが50%くらい。やはり、生活者としての視点がないと、米国のスポーツ界を本質的に理解し、客観的に評価することはできません。

例えば、1週間出張でアメリカに来ても、先進的な事例を見たり話を聞くことは可能です。でも、生活者としての視点や実感がないと、情報の重みづけはなかなかできないものです。住んでいることで先進的な情報を肌で理解し、その実相を感覚としてつかんでいることを私は重視しています。

2つ目の理由は、スポーツを観るにしてもやるにしても、最高の環境が整っていること。これが30%くらいでしょうか。スポーツが人々のDNAとして刻み込まれている米国では、どの季節でも違ったスポーツが生活を盛り上げ、喜怒哀楽をもたらしてくれます。スポーツをやるにしても、人工芝で照明が完備されたグランドを比較的簡単に使うことができます。

平日、仕事を終えて午後6時からレクリエーションスポーツを楽しめる環境が身近に整っているというのは、本当に素晴らしいことです。50歳を目前に控え、3回も手術を経験しながら未だにフラッグフットボールをプレーし続けていること自体が、その証とも言えるかもしれません(笑)。

3つ目の理由は、アメリカという国との相性が悪くなかったのだと思います。集団への帰属がアイデンティティとなる母性社会の日本とは対照的に、一神教に根差した父性社会の米国では、あらゆる局面で個人の判断がベースになります。雑多な価値観が混ざり切った米国社会では、“暗黙の正解”は存在せず、同調圧力はゼロです。

こう聞くと、なんだか自由で楽しそうな印象を持つかもしれませんが、むしろこれは苦痛になりえます。僕もそうですが、母性社会での価値観をベースに米国で生活し始めると、大抵の人は大きな疎外感を感じることになります。母性社会の日本では、個人の自由を一定程度制限する対価として、自分が帰属する母集団(学校、会社など)が個人の世話を焼いてくれることが当たり前のようにあります(終身雇用制度などはその好例)。

個人の都合が常に集団の都合に優先する米国では、まず前提として個人の持つ集団への帰属意識は希薄で、集団も個人の世話を焼いてくれません。つまるところ、これは個人の自由意志の尊重なのですが、これに慣れていないと疎外感や冷たい感じを受けてしまいます。

自分で言うのもなんですが、僕は割と一人でいるのが平気ですし、どちらかというと天邪鬼で、皆が行く方向と違う方に行きたがる個人的な気質を持っているので、こういう性格的な部分がアメリカの生活に合ったのかもしれません。

「わたしの存在そのものが質問なのだ。その答えを知りたくて生きてるんだ」。

これは、劇作家の寺山修司の言葉です。

何の因果か、私はアメリカに19年も暮らすことになりました。その間、弊社の取り組みに価値を感じて下さったお客様や、スタッフ・インターンをはじめとする多くの友人、知人、同志、そして家族に支えられて今に至りました。

異国に生活しながら個人事業主として社会に向き合っていると、どう考えても大きな存在に導かれているとしか思えないような不思議な感覚を覚えることも少なくありません。寺山修司の言葉ではないですが、こうした生き方を送ることになった自分の存在意義というものを再確認しながら、社会貢献と自己実現を両立する自分なりの人生の訴求価値(Value Proposition)というものを追い求めていきたいと改めて思います。


編集部より:この記事は、ニューヨーク在住のスポーツマーケティングコンサルタント、鈴木友也氏のブログ「スポーツビジネス from NY」2019年1月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はスポーツビジネス from NYをご覧ください。