政治亡命は第3者には人間ドラマだが、当の亡命者にとっては生死をかけた冒険だ。失敗すれば(事前に亡命意思を読み取られた場合)、生命の危機に瀕する。1人の場合、本人だけだが、家族と共に亡命しようとする場合、その危険度は更に増す。もちろん、親族、家族が母国に住んでいる場合、本人の亡命が成功したとしても、母国に残した彼らを犠牲とするケースが多い。
昨年11月から行方が不明だった駐イタリア北朝鮮大使館のチョ・ソンギル大使代理のことを考えている。チョ大使代理も駐英公使で韓国に亡命した太永浩氏の場合も家族を連れての亡命だ。両外交官とも単身赴任ではなかった。
例を挙げてみる。駐オーストリアの金光燮大使は金敬淑夫人(故金日成主席と故金聖愛夫人の間の娘)との間に2人の息子がいるが、2人の息子のうち1人は平壌にいる。夫人はウィーンにいる時もあるが、北に戻っている時もある。金大使の傍に常時いるわけではない。駐チェコの金平一大使(故金日成主席と故金聖愛夫人の間の息子)の場合、娘さんが人民軍幹部の息子と結婚したこともあって平壌に住んでいる。両大使は親戚関係であり、金正恩朝鮮労働党委員長にとって叔父に当たる。いずれにしても、両大使にとって政治亡命というシナリオは家族の犠牲なくしては考えられない。
当方は1990年代、政治亡命を考えていた駐オーストリア大使館の2等書記官を知っている。彼は帰国前にウィーンに滞在できるように国連機関(国際工業開発機関=UNIDO)の仕事先をそれとなく打診していた。その事実を知った当方は密かに同書記官の周囲を取材し、亡命の意思を確認しようとしたことがある。残念ながら、彼の口からは何も飛び出してこなかった。ただ、同書記官から当方に電話が入ったことがある。曰く「どうかもう電話をしないでくれたまえ」だった。その直後、同書記官は帰国した。当方は「ひょっとしたら、同書記官は亡命の意思が発覚して強制帰国されたのではないか」と考え、自責の念に囚われた。幸い、同書記官は数年後、ウィーンに再び姿を見せた。それを知って「彼は生きていた」とホッとしたことを覚えている。当方は同書記官の亡命取材について1992年3月号の月刊誌「知識」(廃刊)に掲載した。原稿用紙90枚ほどのルポ記事だ。
当方はまた、2人の北関係者を知っている。1人は1990年代、羅津・先鋒自由経済貿易地帯を西側企業に紹介してきた北朝鮮の代表的“エコノミスト”金正宇氏だ。金正宇氏が自宅に数十万ドルを隠していたという汚職容疑で帰国後、処刑された。当方は金正宇氏と会見したことがある、スイス・ダボスの「世界経済フォーラム」出席後、オーストリア商工会議所開催の「自由経済地帯説明会」に参加した時だ。円満な笑顔をたたえ、この人物が北から来た人物かと驚くほど、その振舞いは洗練されていた(「北朝鮮“エコノミスト”金正宇氏の囁き」2006年8月27日参考)
もう1人は平壌の大聖銀行の出向社員としてウィーンに駐在していたホ・ヨンホ氏だ。彼はロンドン留学で経済学を学んだ若手エコノミストだった。北の対オーストリア債務返済を担当して活発に動いていたが、ある日、「投機に失敗した」との理由で帰国の指令を受けた。平壌から2人の治安関係者がウィーン入りし、同銀行マンを拷問した。ホ氏とビジネスをしていたオーストリア人によると、「彼は処刑された」という。西側情報機関関係者から直接聞いた話だ。帰国後の同銀行マンの運命は知らない。
海外に駐在する北外交官、ビジネスマンは西側では考えられないような厳しい監視の中で生きている。不審な言動があれば、平壌に直ぐに報告される。疑いがあれば、帰国命令が出る。先の銀行マンの夫人はオーストリアの友人に「帰るのが怖い。何が待っているか分かるから」と漏らしていたという。
チョ・ソンギル北朝鮮大使代理の行方はまだ不明だ。北からは特別捜査部隊がローマ入りし、同大使代理を追っているだろう。彼らはイタリア外務省や内務省に圧力を行使する一方、ローマの韓国大使館前や米国大使館前で張り込んでいるはずだ。
ちなみに、1月8日は金正恩氏35歳の誕生日だ。チョ・ソンギル大使代理の亡命情報を受け取り、金正恩氏はさぞかし激怒しているだろう。「チョ氏の亡命は金正恩氏35歳誕生日への最高の贈物だ」といった声すら一部で囁かれている。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年1月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。