『日本国紀』の内容でいちばんの驚きは、応神天皇は仲哀天皇を討った熊襲、継体天皇も王朝交替の可能性が強いとして万世一系を否定的にみていることだ。つまり、今上陛下は神武天皇の子孫でないと強く示唆しているのである。
本稿では、百田氏を批判しようとかそういうことでなく、私が1989年12月号に『中央公論』で『霞が関から邪馬台国をみれば 』で発表して以来長く主張してきて、それなりに知られている、『日本書紀』を中世以降に加えられた皇国史観的な粉飾から脱して率直に読めば、その内容には説得力が高く、万世一系も真実である可能性が高いという説の根拠を二回分けて説明しておきたいと思う。
『日本国紀』の万世一系否定論で、愛国者である百田尚樹氏まで否定的だというので動揺し心配している方にとくに読んでいただきたい。
もちろん、神武天皇に始まる皇統譜を間違いないとして立証するのは無理である。司馬遷の「史記」にえがかれた殷の時代の記述が正しいと確定したのは、同時代の甲骨文字が殷墟から出土し、内容が一致したからだが、4世紀以前の日本では文字はほとんど使われていなかったから、そういう遺物が発見されることはほとんど考えられないからだ。
だから、私が主張できるのは、『日本書紀』に書かれている皇統譜は、いちおう、矛盾なく説明できる内容なのであるから、否定的な推理を必要としていないということまでである。
『日本書紀』の歴代天皇に関する記述は、そのままでは史実としてあり得ない。なぜなら、歴代天皇の寿命が異常に長くて真実と思えないからである。
そこで、実際はどうであったかという推理はいろいろあって、一定の法則で水増しされたという人もいる。しかし、私はそれより、歴代天皇の寿命を、『日本書紀』に書かれている伝記や外国の史書や考古学的な成果も参考にしながら、適切な長さに修正して、それで矛盾ない歴史として説明が可能であるということを検証している。
そして、『日本書紀』の系図と事跡はだいたい信用してもいいのではないかと結論づけているのである。その結果、①少なくとも、荒唐無稽のようにいうのはおかしいし、②ウソを書いたのだという動機も説明できておらず、③従って、真実の可能性が極めて高いと思っている。
今日は、『日本書紀』が語る継体天皇の即位の経緯が納得できるものだということと、その時の経緯からして、応神天皇が仲哀天皇の子であるという認識が、その際にあったと言うことを延べ、次回は、歴代天皇が実際に生きた年代を推定してみよう。
『日本書紀』は継体天皇を新王朝に相応しい英雄として描いていない
福井県では継体天皇が地元が誇りにする郷土の偉人の一人になっていて、市内を見下ろす足羽山の中腹には継体天皇の石像が立っている。記紀には、武烈天皇に子供がなかったので、豪族たちが相談して、地方にあった皇族のなかから、応神天皇の五代の孫で、近江高島郡で生まれて母の実家がある越前に住む大迹王が賢者だというので迎えられたとしている。
ところが、この遠い縁者による継承は不自然で、本当は簒奪者という人がいる。しかし、『日本書紀』のもとになった「帝紀」などが成立したときの天皇は継体天皇の孫である推古天皇だ。人々の記憶もまだ生々しいころであり、お祖父さんが北陸からやってきて征服王朝を樹立したのならその興奮はまだ現代史として語り継がれていたはずだ。
新王朝なら、継体天皇の物語は、偉大な英雄として描かれていたはずなのである。ところが、記紀によれば、継体天皇は武烈天皇の宮廷を牛耳っていた大伴金村の勧めで皇位継承を引き受けたものの、大和にいきなり入ることもできなかった。
新王朝なら大和の勢力と激しい内戦があったはずだが、それもなさそうで、テロが怖かっただけだろう。
また、朝廷のなかで越前系の人々が実力者として多く取り立てられたようでもなく、それ以前からの豪族がだいたいそのまま居座っている。せいぜい大伴氏などにかわって蘇我氏や物部氏が台頭したくらいであることも、王朝交代説を否定する傍証だ。
それでは、どうして、応神天皇五世の孫などと言う遠縁でしかない継体天皇におはちが回ってきたのか。それは、雄略天皇があまりにもたくさんの皇族を殺してしまったので、皇統を継ぐべき王子が本当に少なくなっていたのだ。なにしろ、雄略天皇の子の清寧天皇のあとも、播磨で牛飼いをしていた2人の王子が名乗り出て、顕宗・仁賢両帝となったくらいである。この2人が名乗り出たとき、跡継ぎがいないことを心配していた清寧天皇は、父のライバルの子供たちであるにもかかわらず大喜びしたというのだから、少なくとも仁徳天皇の男系子孫はもういなかったのだ。そこで、応神天皇やそれ以前の天皇の子孫から探し出すことになった。
まず、声がかかったのが、仲哀天皇の子孫、つまり応神天皇の兄の子孫で丹波にあった倭彦王である。これが、騎馬民族説など応神天皇が新王朝を開いたと主張するのが荒唐無稽である証拠である。応神天皇と仲哀天皇に血縁がなければ、そんなことはあり得ないだろう。応神天皇は始祖でなく仲哀天皇の子だと、少なくとも認識されていたのである。
もちろん、仲哀天皇の死には内紛の結果かもしれないし、もしかしたら、応神天皇の実際の父親は仲哀天皇でなかった可能性はある。
それは、始皇帝の父親が呂不韋でないかという説のようなもので、それはありうるかもしれないが、少なくとも、周囲から仲哀天皇の子として認められていたことが大事なのである。帝王の父親が本当は誰かが怪しいことはいくらでもあってそれは現代のヨーロッパの君主国ですらあるが、それが周知の事実でない限りは、公的な父子関係を前提に正統性は確保されている。
そして、第2候補として声がかかったのが、越前にあった継体天皇である。マイナーな皇族のように見えるが、曾祖父の姉妹が允恭天皇の皇后になって安康、雄略両帝の母となっている。つまり、祖父が雄略天皇の従兄弟だったわけで、けっこうメジャーな存在だったのである。
生まれたのは近江高島郡で、父が早く死んだために母の実家がある越前で育ったので、中央政界との接触が少なかったようだ。父親の彦主人王が近江高島郡三尾の別業(別宅)にあったときに生まれたので、本拠として有力なのは米原市(かつての坂田郡)の伊吹山の麓だ。
ここは息長氏の本拠だったのだが、息長氏は開化天皇から出ると言われ、神功皇后(息長帯比売命)も出している。一方、応神天皇の皇子である若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とするともいい、これだと継体天皇も息長氏の一員である。また、天智・天武の父親である舒明天皇の名は息長足日廣額天皇である。
事情はよく分からないが、このあたりに天皇家に連なる王子たちが、婿入りも含めて多く住んでいたのであろう。継体天皇の父親は、天皇が幼いころに高島郡で死んだ。
夫を失った振媛命は、実家で垂仁天皇の末である三国公のもとに帰り、継体天皇は越前で育ったいわれるが、近江との交流は盛んだったようで、多くの妃を息長一族など近江から迎えている。
安閑・宣下両天皇の母は尾張氏の出身とされてるが、尾張から美濃、近江、越前といったあたりの王族たち同士で結婚を通じた交流が多くあったのはごく自然なことだ。
崇神・神功・応神にのみ「神」の字が使われている理由
なお、崇神・神功・応神にのみ「神」の字が使われていることを『日本国紀』は王朝交替の有力な根拠としているが、『日本書紀』の記述でも、崇神天皇はもともと天皇家は大和のごく一部を領有するに過ぎなかったのを、大和を統一し、さらに吉備や出雲まで勢力圏に入れた中興の祖である。
神功皇太后は北九州を大和朝廷の支配下に入れて統一国家を実現し、朝鮮半島に進出した偉大な女帝であり(大正15年までは歴代天皇に入っていた)、応神天皇はその子として母とともに統一日本国家の基盤確立に尽力したのだから、これも、新王朝でなくとも、中興の祖としての資格は十分なことは『日本書紀』の語る歴史の流れから説明できるのである。