①では、応神天皇や継体天皇が新王朝を開いたとすることは不自然で、まず間違いなく、皇統は連続しているということを論証した。
今回は、西暦2019年が皇紀2679年前というのは古すぎるとして、実際には各天皇の生きた実年代はどのくらいかということを推定してみたい。『日本書紀』における系図と事跡が正しいとしたままで、中国の史書や考古学的な遺物から確定できる年代と矛盾がないような説明ができるかが問題だが、結論から言えば可能である。
応神天皇は346年生まれ?
倭の五王(讃・珍・済・興・武)による中国南朝への使節派遣は、統一日本国家が中国と初めて交流をもったという意味でたいへん大事だが、中国の史書の記述から見ると、最初の倭王讃(仁徳天皇または履中天皇)の崩御は430年代あたりだ。大和石上神社の七支刀は、『日本書紀』で神功皇太后に贈られたものとされており、泰和4年(369年)と思われる銘がある。
「好太王碑」には、「新羅や百済は高句麗の属民であり朝貢していたが、倭が391年に海を渡ってきて百済や加羅や新羅を破り、臣民となしてしまった」とある。
「新羅本紀」には倭人が紀元前50年を最初として、なんども新羅の海岸地帯を侵し、とくに、346年、ついで393年には首都だった金城(慶州)を包囲したとある。
こうした記録と、『日本書紀』の記述を総合的に解釈すれば、少しの年代のずれはあるが、仲哀天皇の死、神功皇后の三韓征伐、応神天皇の死が新羅本紀が倭が攻めてきたとしている346年に近い年代であることが有力だと推定できる。391年ないし393年では七支刀の年代と両立しない。
そうすると、応神天皇の生まれと、その息子の仁徳天皇、あるいは孫の履中天皇の死の差は約90年ということとになり自然だ。
崇神天皇は卑弥呼ジュニア世代
さらに、ここから崇神天皇やヤマトタケルの活躍の年代を逆算していくと、応神天皇と仲哀天皇の年齢差は、30才以上は離れているとみるべきだ。応神天皇が生まれる前に死んでいるし、半島から凱旋してきた神功皇后が畿内に戻ってきたときに、近江の穴太高穴穂宮にあって抵抗したという麛坂皇子、忍熊皇子という異母兄がいたからだ。
仲哀天皇は景行天皇の子であるヤマトタケルの子だが、ヤマトタケルが比較的若くして死んだらしいことを考えると年齢差は比較的小さいと見るべきだ。ヤマトタケルも、子の仲哀天皇に先立って弟の成務天皇が即位していることなどから考えて、父景行天皇の比較的若いころの子供のようだ。
こうしたことをまとめていくと、景行天皇の全盛期で、ヤマトタケルが活躍して大和朝廷の勢力が九州の一部や関東にまで広がり始めたのは、4世紀初頭、さらに、その景行天皇の祖父にあたる崇神天皇の全盛期は三世紀のなかごろということになる。
少々、強引に誕生年を推定してみると、仲哀天皇と応神天皇の差は少し大きくとって36歳にして、あとは、25歳の時の子供だとすると、仲哀天皇は310年生まれ、ヤマトタケルが285年、景行天皇が260年、垂仁天皇が235年、崇神天皇が210年だ。
そこから大和朝廷の統一過程を推定すれば、大和統一が240年、吉備や出雲を支配下に置いたのが260年、ヤマトタケルの活躍が310年前後、仲哀天皇の筑紫進出と列島統一と応神天皇の誕生が340年代ということになる。
邪馬台国はどうだったかだが、もし、九州説だと、卑弥呼は崇神天皇より一世代ほど前に九州にあって、大和朝廷とはさほどの交流はなかったと言うだけだ。そして、卑弥呼を継いだイヨのころに滅亡して中国へ使節を送ることもなくなったということだ。
神武天皇は零細企業の創業者・崇神天皇は上場した中興の祖
倭の五王については、仁徳天皇が倭王讃で雄略天皇が倭王武だとすると一人余ってしまう。『宋書』では倭王讃の弟が倭王珍としている。そうだと履中・反正の可能性が高いのだが、『日本書紀』には仁徳天皇と中国との交流をうかがわせる記述もある。また、履中が6年、反正が4年しか在位していないと『日本書紀』には書かれており、倭王讃は仁徳天皇で倭王珍は反正天皇。その間の履中天皇は中国に使節を送らず、反正天皇が使節を送ったときに、倭王讃の息子でなく弟だという誤解が生じたというほうが総合的には説明しやすい。
そして、崇神天皇の前は欠史八代で、その前が神武天皇だが、その中間の綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化の八人、とくに、真ん中の六人については、皇后の系譜や宮の位置、子どもなどについてしか書かれていない。
そこで、神武天皇が日本の国を建国されて人民がそれに服していたのに、分からないのはおかしい、不自然だ、だから架空だという人がいたり、神武天皇と崇神天皇は同一人物だと考える人もいる。明言はしていないが、『日本国紀』もそれに惹かれているようだ。
しかし、こうした勘違いは、神武東征とか、畝傍山の麓での厳かな即位とかいった、中世以降に形作られて、明治以降、とくに大正以降、盛んになった仰々しい、ある意味で軍国主義的色彩を帯びた皇国史観によって脚色されたイメージに惑わされたものだ。
記紀を素直に読めば、神武天皇は日向国で支配者的な人物だったなどとどこにも書いてない。男ばかり少人数で日向を出奔し、西日本各地を転々として力をつけて、最終的には橿原市から御所市のあたりを支配する王を滅ぼして、その後釜に座ったというだけだ。
そして、地元有力者の娘を皇后にする。そして、二代目には日向からついてきた長男がなりかけるのだが殺されて、皇后を母とする綏靖天皇が即位する。
そのあとは、大和盆地の各地の有力者同士で縁結びをして、勢力を拡げ、ついには、崇神天皇のときに、大和の中心だった櫻井市付近も勢力圏に入れて大和国を統一したということが、記紀の内容だ。
しかし、そのあたりは、企業で言えば、零細企業時代のことであって、崇神天皇が上場に成功した中興の祖である。そして、その先祖で零細企業として創業した初代のことは伝承がしっかりされているが、そのあと8人は、誰と誰はどういう親戚かとか言う、やや模糊とした情報しかなかったのではないか。
しかし、仮に本当に崇神天皇が10代目で、しかも、父から子への継承ばかりだったとしたら、神武天皇は紀元前後の人だということになるし、本当は兄弟相続もあって、世代数はもう少し少ないとすれば、2世紀あたりなのかもしれない。