戦後の日本を代表する政治学者である丸山真男は
『日本の思想』の中で「ある社会学者が『自由を祝福するのは容易だが、自由を擁護することは困難であり、自由を行使することはさらに困難である。』と言っている
と述べている。
また、社会心理学者のE.フロムは、近代人に与えた自由は、個人を孤独にして不安な無力なものにしたと述べている。そして、そのような自由の重圧から逃げて新しい依存と従属を求める権威主義的パーソナリティが生まれると分析した。
ムラ型社会から都市型社会への近代化は、個人に自由をもたらしたことは確かだ。しかし、裏を返せば個人の絶対的な居場所を奪い、全てを個人に委ねた。それが自由でもあり、重荷でもあるのだ。自由とは何よりもの幸福と思われがちだが、それは自己決定を意味する。それを為す者はとりもなおさず「私」という存在だ。その存在が不安定なものであるとどうなるか。とりわけ、第二次成長期に位置する青年期における発達課題の一つである自我同一性の確立が十二分に為されなければ、どのような影響を及ぼすのか。
かつて、日本の政党に民進党があった。それは、1998年に結成された民主党の流れを汲む政党だ。その年は私の生まれ年でもあり、親近感を持っていた。民主党時代には自民党から政権を奪還したものの、3年3ヶ月の間に3人の内閣総理大臣を誕生させて2012年に下野した。
そして2017年の総選挙に際して、小池百合子東京都知事率いる希望の党に易々と吸収合併され、民進党は事実上、姿を消すことになった。希望の党に移らなかった議員は立憲民主党を結成した。そして2018年、(小池)希望の党が分裂し、国民民主党と(新)希望の党が生まれ、現在に至る。
離合集散を繰り返す諸悪の根源となった民進党は、一体何がしたかったのかと、今でも疑問に思う。民進党には、良くも悪くも多様な意見が存在した。しかし、それらをまとめることができず、明確な国家像を国民に対して提示できていなかった。
このような状態は、人間いうところの青年期に際して、自我同一性を十二分に確立なされていなかった帰結であると言えよう。つまり、民進党はモラトリアム政党であったのだ。政権政党になるため、準備運動をしている途上だったのだ。
最終的に民進党は、結成して間もない(小池)希望の党に完全に党を売り渡すという最悪の形をとった。それにも関わらず、民進党はどこか安堵したような様子であった。それは、先の総選挙で希望の党の代表であった小池都知事にあやかろうとしていたのだろう。選挙に当選するためには、民進党では不利と考えたのだろう。時の風に身を委ねるから、民進党はダメなのだ。
畢竟、政治家として自立していない個人が集まっても、自立した政党は生まれない。そして、自立した国家も生まれない。そのような政治家には、ドイツの政治学者であるM.ウェーバーが言うところの「心情(信条)倫理と責任倫理」が大いに欠如していると言える。政治家個人としての情熱と判断力が著しく乏しいのだ。
民進党の有り様から、自我同一性の重要さを窺い知ることができるだろう。即ち、個の確立無くして前進は無い、ということだ。地に足を付け、確固たる「私」という存在を確立することにより、初めて自由を行使することができるのだ。先に述べたフロムの言葉を借りれば、積極的な自由の完全な実現には、人間の独自性と個性に基づく必要性があるのだ。
それは、とりわけ日本人には難しいことなのかもしれない。日本人の国民性について以下のような見解(1)がある。
欧米人は自分の意思や意見を直接相手にぶつけて強く自己主張するのに対し、日本人は相手の気持ちや立場を察して、それも考慮に入れて発言したり行動したりする傾向が強い。さらに、日本人はイエス・ノーをはっきり表明しない傾向がある。日本人がこのような行動をとり、また相手にもそれを期待するのは、日本人の同質性、無用の摩擦を避けようとする古くからの伝統などに基づくものであろう。
つまり、日本人は和を以て貴しと為すという精神に基づく集団主義、協調主義傾向が根強いのであろう。それは集団生活を営む上では必要なことであろう。しかし、集団の中の一人である前に、一人の中の一人であれ、ということを強く主張した。
帰属意識の高い日本人は、都市化によって帰属を再構築するように迫られている。それはまさしく、自我同一性の確立である。それを阻害するものは同調圧力である。周囲の人と同じであることによって安心感を得ようという心理状態に陥っているものと推察される。自己ではなく、外側の何者かと自己を融合させようとする傾向は、フロムの言う「逃避」そのものだ。そこでは、近代化によって失われた第一次的な絆の代わりに、「第二次的」な絆を求めている。そして、ふと気付くと、「私とは何か」という漠然とした不安にさいなまれ、孤独を感じる。孤独を埋める存在である「私」の存在が不十分であるからこそ、起こり得る現象であろう。
例えば、100個の玉のうち、1個だけ異なる色があったとする。それは傍から見れば目立つ存在だ。99個の玉から1個の玉を見れば、そのように感じるだろ。では、1個の玉から99個の玉を見ればどうだろうか。みな、同じ色であり、個別性が無いと言えるだろう。
このような浮く恐怖から、自我の確立を躊躇しがちなのではないかと考える。周囲から変わり者、異端、自己中心的等、不本意なレッテル張りにあうことを避けるべく、できるだけ周囲に寄り添おうする姿勢を強く感じる。周囲と同一化を図ることにより、自身を監獄に押し込めてしまう。そして、仮初めの「私」を演じる羽目になってしまうのだ。それは、周囲からの同調圧力に屈指、周囲が描く誰かを演じ、その世界で生きているに過ぎないのだ。その典型が性別役割分業に代表される「男らしさ」「女らしさ(特に女子力)」だ。そこに「私らしさ」は無く、プロトタイプによる汚染が見られる。
だからこそ、自我の確立がいつになっても為されず、モラトリアム期間を経ても、大人子どもが散見されるのだ。このような人間は「モラトリアム人間」と呼ばれるが、私はそのような人間を「考えないヒト」と呼びたい。
そもそも自我同一性は、フランスの哲学者であるデカルトの言葉「我思う故に我あり」が表すように、思考をその緒とするものと考える。即ち、考えることによって自我が芽生えてくるのだ。疑い、考えることによって「我」が初めて生まれるのだ。
また、フランスの思想家であるパスカルは「人間は考える葦である」と述べている。この言葉は、人間の自然の中における存在としてのか弱さと、思考する存在としての偉大さを言い表したものである。つまり、人間は考えることによって、ちっぽけながらも葦であることができる。裏を返せば、考えないことは、無の存在であるということではないだろうか。
答えない世界を生きるためには自ら考え、哲学することが必須であり、その主体でとなる唯一無二の存在である「私」の確立、即ち、自我同一性の確立の重要性を一番に主張したい。それが、青年期という多感な時期に多くの刺激を受けて開花することを望む。
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丸山 貴大 大学生
1998年(平成10年)埼玉県さいたま市生まれ。幼少期、警察官になりたく、
脚注
(1) 日鉄技術情報センター『日本-その心と姿-』(学生社、2006年11月25日)392頁