権力監視能力は誰が保障するのか?
ジャーナリスト達が騒がしい。
首相官邸が官邸記者クラブに対して「事実を踏まえた質問」を要請し、波紋を起こしている。
新聞労連は「首相官邸の質問制限に抗議する」と声明を出して猛反発している。
この声明文には「東京新聞の特定記者の質問行為について」と触れられているように、首相官邸の要請は東京新聞所属の望月衣塑子氏を念頭に置いているのは明らかである。
また少し前、このアゴラでも触れられたように、ジャーナリストの常岡浩介氏に旅券返納命令が下され反響を呼んでいる。
常岡氏への返納命令に対して、シリア取材で武装勢力に3年余り拘束された安田純平氏がTwitterを更新し、議論を過熱させている。
常岡氏はともかく、望月・安田両氏はネット上で注目集めているジャーナリストであることは間違いない。前者は菅官房長官に対して声を張り上げ、後者は武装勢力から解放されてからそれほど月日は経過していない。ネット上では「安田純平」の記憶はまだ残っている。
この二人の内、望月衣塑子氏はよく「権力を監視するのがジャーナリストの使命だ」と力強く主張する。
筆者が望月氏に限らずジャーナリストによる「権力を監視するのが使命」の類の発言を聞いていつも思うのは、ジャーナリストの権力監視能力は誰が保障するのかという点である。
管見の限りジャーナリストの権力監視能力を保障(証明)する制度はない。
「ジャーナリスト」「新聞記者」の肩書をことさら強調して、ただ一方的に自説を主張している印象が極めて強い。
そして望月・安田両氏がネット上で注目されている最大の理由は、彼(女)らの「権力監視能力」が相当に疑わしいからである。
まとまりの欠けた質問をする新聞記者、戦場で繰り返し拘束されるジャーナリスト。
一体何を監視しているのだろうか。一体何が凄いのだろうか。筆者は全く理解できない。
意欲はあるが能力はない
望月氏は加計学園の大学誘致を巡る問題について熱心であるが、その割にはこの問題についての理解は十分とは言えない。例えば、補助金交付制度について誤った理解を持ちそれを得意になって話してしまい、同席していた元文部官僚に訂正される始末である。
取材事案に対して正確な知識を持ち合わせていないというのは致命的である。
安田氏に関しては、戦場で繰り返し拘束されている。拘束されては取材も何もない。
望月・安田両氏に共通しているのは、「権力を監視する」とか「戦場の悲劇を取材する」と言った意欲は驚くほど高いが、それを実現する肝心の能力がないのである。
「意欲はあるが能力はない」というのが望月・安田両氏の最大の特徴である。
彼(女)らが「権力を監視する」とか「戦場の悲劇」を強調するのは、自分の能力不足を誤魔化すためである。
相手の足元を見るジャーナリスト
望月・安田両氏はどういうわけか同じジャーナリスト、特にリベラル系ジャーナリスト達からの評判は良い。上記の新聞労連は望月氏を全面的に支持しているし、安田氏に対しては例えば朝日新聞は社説で「シリアの現実から決して目を背けない。安田さんの志を、私たちも共有したい」と述べたほどである。
しかし違和感は大きい。望月氏はそもそも質問能力が極めて低いことが問題視されているし、安田氏もまた繰り返し拘束されている。両氏ともに肯定的評価が出来るものが乏しい。
より踏み込んで言えば、この二人に問われているのはジャーナリストとしての「適性」である。そしてジャーナリスト、特にリベラル系ジャーナリスト達から望月・安田両氏のジャーナリストとしての「適性」を問う声はほとんど聞かれない。
二人の「適性」には触れず、どういうわけか「ジャーナリストがいなければ民主主義は成立しない」の類の意見ばかりが強調される。
例えば戦場ジャーナリストである志葉玲氏は安田氏を論じる中で、「ジャーナリストは、憲法で保障された『知る権利』のために働く者であり、国民主権の民主主義制度の根幹を担う者だ」と述べている。
要するにジャーナリスト、特にリベラル系ジャーナリストは「自分達がいなくなれば社会がおかしくなるぞ」と言っているのである。
そしてこれは相手の足元を見た表現である。やや誇張して言えば、我々日本国民に対する「脅迫」と言っても良い。
さて、ここまで望月・安田両氏とそれを支持するジャーナリストについて論じたが、それに基づけば「ジャーナリスト」とは
「口を開けば肩書を強調し批判されれば相手の足元を見て脅迫し、決め台詞は『権力を監視する』」
職業と言ったところだろうか。もちろん「戦場ジャーナリスト・バージョン」の「決め台詞」は「権力を監視する」ではなく「戦場」にまつわるもので良い。
待っているのは「悲劇」ではなく「喜劇」
ジャーナリスト、特にリベラル系ジャーナリストのほとんど全部は「反安倍」である。彼(女)らのSNS上の表現を見ると、このまま安倍政権が続けば自分達に何か悲劇的な結末が待っているような言いまわしである。
忖度して言えば、それは言論弾圧であり民主主義の崩壊である。そしてそれを防ぐために自分達ジャーナリストは安倍政権と戦わなければならない…と言ったところだろうか。
しかし筆者は、望月・安田レベルの人間がジャーナリストとして肯定的に評価されている限りはジャーナリストに「悲劇」などやってこないと考える。
ネット上では望月・安田両氏への厳しい批判があふれているのは事実だが、より視野を広げて見れば両氏には批判以上に嘲笑が溢れている。
要するに望月衣塑子と安田純平は嗤われているのだ。実際、彼(女)らの発言、振る舞いは嗤われても仕方がない。自業自得である。
このまま行けばジャーナリストは「嗤われる」存在に成り下がるだけだろう。
「ジャーナリスト」とか「新聞記者」と名乗るだけで嘲笑・失笑・白眼視され、「悲劇」ではなく「喜劇」の当事者になる。
果たしてジャーナリストにそれが耐えられるのだろうか。
しかしまだ完全に「嗤われる」対象に成り下がったわけではない。かなり厳しいが頑張ればかろうじて信頼回復もできるだろう。
今、ジャーナリストに求められているのは、声高に「権力を監視する」と叫んだり自分を一段高みに置いて「ジャーナリスト論」を語ることでもない。
真摯に「事実を追求する」ことが求められている。
そしてこれができなければ「ジャーナリスト」は本当に「喜劇」を演じるだけだろう。
まさに日本のジャーナリズムは正念場にあると言える。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員