堺屋氏は自分の人生に不満足だったと思う

八幡 和郎

堺屋太一さん(官邸サイトより:編集部)

堺屋太一先生が亡くなった。先生については、彼が成し遂げたことでなく、成し遂げられなかったことが大事だと思う。彼は気宇壮大で本当に国のためを想う人だから、決して自分の人生に満足していなかったと思う。

この日本という国と関西のいまの状況は志を持つ人間なら絶望的なものだからだ。官僚、政治家、作家、イベントプロデューサーとして功成り名を遂げたわけだが、そんなことで満足するスケールの人ではなかった。

いちばん濃密に一緒に仕事をしたのは、1990年代の首都機能移転問題だ。村田敬二郎元通産相、宇野収関経連会長などと東京一極集中を崩すのは結局これしかないと、遠大な作戦を展開して、結局、議員立法で法律まで通したが、橋本龍太郎内閣のときに事実上、凍結されてしまった。

しかし、あくまでも凍結だからいつかまた春が来たらやろうと虎視眈々と願ってきた。お会いすると、あれをもう一度いつかやろうとまず仰った。関ケ原のリベンジを毎年の正月に、今年はどうかと思案していた長州藩みたいなものだって笑いあったこともある。

二人で話をすると、いつも話題は、結局、関西のことだった。東京にどうしたら一泡吹かせられるかという執念も共通だし、何をすべきかも、なにが原因でうまくいかないかもそんな意見に違いない。だから、いつも敗北感と愚痴に近い話になった。

著作家としてのデビュー作は『EEC その経済と企業』(日本能率協会、1962年)で、これはあまり注目されなかったが、東西二極論を展開した『日本の地域構造 地域開発と楕円構造の再建』(東洋経済新報社、1967年)は、丹下健三の「メガポリス」に対抗する池口小太郎(本名)の「メガネ・ポリス」と話題になった。

それ以来、関西の復権がライフ・ワークで、そのために、大阪万博を考え出した。その後も、大阪21世紀協会とか橋下徹知事の立候補応援とかいろいろしてそれなりに成果を上げたように見えるが、本人が満足できるようなことにはならなかった。

小渕内閣で経済企画庁長官に就任したが、そのことで、作家としてはなかば卒業になった。政治家としては日本経済再生のためにそれなりの絵を描いたが、大蔵省の走狗でしなかない小泉純一郎の出現が堺屋氏のシナリオを破壊してしまった。小泉内閣ができて一年ほどしたころ「いったい、森喜朗内閣のどこが悪かったというのか自分には分からない」と仰ったのが印象に残っている。

堺屋氏とのもうひとつのご縁は、沖縄を通じてのものだ。復帰の直後に、沖縄開発庁沖縄総合事務局通商産業部企画調整課長の初代として赴任して海洋博の実施に奮闘した。私はそのポストの7代目だったが、部下はほとんど同じだったので、作家としての売り出し前の池口小太郎氏にまつわるエピソードや仕事の仕方を聞いておおいに学ばせてもらった。

ただ、沖縄については、堺屋氏が推進した二千円札に守礼門の図柄を入れるというプロジェクトに、中国の皇帝への忠誠の証である守礼門を日本国のお札に入れるなんぞもってのほかという反対運動を私は主導したので、悪いことをしたと思っているが、これは、個人的なお付き合いで反対をやめるわけにはいかない問題だった。

堺屋氏は国家的な威信とかいうことには興味がない人だった。だからたとえば、満州国のこととか韓国や中国との歴史とかいう話にはできるだけ首を突っ込まない、発言をしないことに徹しておられた。それをすることのデメリットが大きすぎるというお考えだったが、そのあたりは、意見が合わなかった。

橋下徹氏のことについても、いろんな話をしたことがあるが、それは、まだ現存の人物に関わる話なので、やめておこう…。