東京一中(日比谷)から二十三中(大森)までの物語

八幡 和郎

47都道府県の「一中」はどこなのか』というものを書いてご好評いただいたことがあるが、『日本のベスト高校100』(啓文堂書房)では、戦前に公立の旧制中学だったとことはかなり丁寧に拾っている。都道府県によって事情はそれぞれだが、名前としてナンバーが降られていることころもあるし、ナンバーは着いてないが設立順は必ずあるので、実質的には順番が付けられるのが普通だ。

日比谷高校(Wikipedia:編集部)

はじめはナンバーを振っていたが、途中で多くなってきたので地名にしたところもある。また、神戸一中(神戸)、二中(兵庫)、三中(長田)とかいうように、兵庫県の一中ではないが、神戸市内にある中学校のなかでナンバーがついている場合もある。東京の場合でいうと、二十三中まであって、きちんとナンバーがふられている。

一中は日比谷だが、二中はどこかというと、明治三四年開校の立川高校である。 鈴木俊一(東京都知事)などが卒業生。以下、名称と有名OBなど寸評だけをしておく。

三中は両国高校で芥川龍之介(作家)。五中は小沢一郎の母校である小石川高校。新宿高校は六中で坂本龍一(作曲家)。隅田川高校は加東大介(俳優)。小山台高校が八中で、東工大合格者数全国トップであったことが多く、菅直人(首相)。板橋区にある北園高校が九中で江守徹 (俳優)。十名は先に紹介した西高校。

以下、深谷隆司(通産相)の江北高校(十一中)、仲代達矢(俳優)の芦花高校(十二中)、宮崎駿(スタジオジブリ)の豊多摩高校(十三中)、井川遥(女優)の石神井高校(十四中)、石田純一 (俳優)の青山高校(十五中)、ラッキィ池田(タレント)の江戸川高校(十六中)、土橋正幸(野球)の日本橋高校(十七中)。志茂田景樹(作家)らの国立高校(十九中)、猪谷千春(スキー選手)の大泉高校(二十中)、青島幸男(都知事・放送作家)が中退した武蔵丘(二十一中)、松平康隆 (バレーボール監督)の六本木高校(二十二中)、毒蝮三太夫(タレント)の大森(二十三中)である。玉泉中学(十八中)は、統合で西高校(十中)につながる。昭和21年(1946年)に設立予定だった二四中は、開校を迎えることなく九中に吸収された。

明治11年(1878年)、東京府第一中學は、文京区本郷にて開校した。やがて、岸和田藩邸(現在の日比谷高校の場所)に移った。「星陵」は、隣地の日枝神社も含めた周辺一帯の高台が古くから「星野山」、「星ヶ岡」(または星ヶ丘)と呼ばれたことに由来する

名称は、明治33年(1900年)に二中以下が設立されたのを機に東京府第一中学校、ついで、東京府立第一中学校となり、この名をもって長く全国一の名門校として君臨した。

現在の戸山高(Wikipedia:編集部)

戸山高校は明治21年(1888年)に飯田橋に補充中学校として設立され、いちどは私立となったが、東京府城北尋常中学校を経て明治三四年に東京府立第四中学校となった。高田馬場駅に近く、早稲田大学理工学部と明治通りをはさんで向いにある。 スパルタ教育で、一中(日比谷)を追い越すことをめざした。校則も極端に厳しく中退者も多かった。

陸軍軍人の子弟が多かったのは、陸軍関係の施設が付近に多かったのと、スパルタ教育ゆえ。東條英機(首相)、磯村尚徳(NHK)なども軍人の子だ。

日比谷高校のライバルと都立高校の全盛期にいわれたのが、杉並区の西高校だ。昭和10年(1935年)に東京府立第十中學校として青山で開校し、2年後に、現在地に移転した。23区の西端にあることから「西方浄土」にちなんだというからやや安易なネーミングだ。