ファシズムと共産主義と絶対王政
世間で誤解されがちだが、ファシズムの生みの親は共産主義(社会主義)である。ファシズムというとアドルフ・ヒットラーがすぐに連想されるが、ファシズムにおける先駆者はイタリアのベニート・ムッソリーニである。
ムッソリーニは元々イタリア社会党の党員であり、ロシア革命の立役者ウラジーミル・レーニンに「イタリア社会党に欠かせない優秀な人物」と絶賛されていた。
しかしムッソリーニは、社会主義・共産主義に物足りなさを感じ、彼自身の手によって「改良」された結果生まれたのがファシズムである。
計画は役に立つか
共産主義(社会主義=ファシズム)、そして絶対王政国家に共通したやり方が「計画」である。「偉い人」が神のごとく「計画」したことには間違いが無いから「計画」の仰せに従えばよいというわけだ。
しかし、世の中に神のような完璧な人間がいるはずもなく、それどころから人間の能力には大差が無いから、誰がやっても完璧な計画はありえない。ところが共産主義者、ファシストが支配する国では「偉い人は正しい」ことが前提になっているので、計画が間違っていた場合、現実を(間違っているはずが無い)計画に合わせるという奇妙なことが行われる。そして、それを「おかしい」と批判する人々は粛正されるわけだ。
ただし、計画には2通りある。世間では、計画といえば「絶対不可侵の計画」をおおむねイメージするが、もう一つの計画は「修正されるのが前提の計画」だ。「トライ&エラーのための捨て石」と呼ぶこともできる。
ハイキングに行く時から、大企業の事業まで、おおよそ計画無しではものごとは始まらない。しかし、この場合の計画は常に修正される。
もし雨が降ったら美術館巡りのBプラン、バスの手配ができなかったら電車で移動など「予想されなかったこと」に臨機応変に対応するのが当然だ。バスの手配ができないのは計画になかったことだから中止などという硬直的な対応が賢い選択だとは思えない。
しかし、フリードリヒ・ハイエクが指摘するように、前者の硬直的な計画は共産主義、ファシズム国家の専売特許ではない。
例えば国家の予算というのは非常に硬直的で、一度決められるとほとんど変更が無く、予算が余れば年度末の道路工事などで無駄遣いされる。
また、この種の計画は評価が行われないことも大きな問題だ。株式会社は決算の数値という明確な指標で効果を測定され、株主から厳しい評価を受ける。ところが、政府予算の<効果>というのは漠然としていて、明確な数値で検証されることが無いので責任もあいまいである。
だから、現代において常に評価され(計画)改善の努力を続けている株式会社(営利企業)があらゆる分野で高い成果を出しているのは当然なことなのだ。
平等という言葉の意味
私は、大変残念なことにジャニーズ系のイケメンではない…。もちろんアインシュタインのように「相対性理論」を考え付くこともない。これは、私に限った話では無く、人間の能力・素質というのは遺伝子がとても不公平に与えたものである。しかし、これを 是正する動きはない。
例えば不細工な男はイケメンの男の顔をぼこぼこにしても良いとか、逆に不細工な男の美容整形費用は国が全額負担などという話は、世界中どこでも聞いたことがない。そのようなことに意味があるとは思えないし、それぞれの人間はそれぞれに与えられた条件の中で努力し、結果を得ることで満足しているのだ。
実は、金持ちの家に生まれるとか貧困家庭に生まれるとかいう条件もそのような要素の一つにしか過ぎないのだ。私を含めすべての人間(子供)は、親を選ぶチャンスを与えられなかった。その両親が金持ちなのか貧しいのかは、遺伝子によって決定される才能と同じように全くの偶然なのである。
もちろん、才能に恵まれた子供が自分の才能に感謝する必要が無いとか、逆に児童虐待の被害にあっている子供を救う必要が無いということではない。しかし、どのような環境に生まれ落ちるかは「偶然」であるわけだから、そこをむやみにいじっても良い結果が生まれるはずがない。
大事なのは、ハイエクも述べるように「機会の平等」なのである。生まれた環境、つまりくじ引きの結果は<偶然=運命>として受け入れるとして、どのようなくじを引いた人々でも「平等」に機会を与えることが一番大事なのである。
家柄、血筋、人種などで区別・差別することは「機会の平等」に反するが、学力で区別する「学歴主義」は、機会の平等に反しない。もちろん、持って生まれた学力は千差万別であるし、親の収入によって塾に通えるかどうかが決まることもあるだろう。それでも、どのような貧困家庭、人種であっても「受験するチャンス」が平等に与えられていることが重要なのだ。
そもそも、世の中の出来事のほとんどは「偶然」に左右されており、同じような条件を与えたつもりでも、微妙なタイミングの差で全く違った結果になることがある。
「平等な機会」を与えて生まれた偶然の結果の違いまで、面倒を見て同じ結果にしようなどとするなどというのは、50メートル競争で最後は手をつないでゴールインさせ同着にさせるような、誤った(結果の)平等主義の小学校の教育方法と同じである。
そもそも、「結果」は偶然に支配される人知を超えた領域なのだから、我々人間は「機会」の平等を維持するよう努力すべきなのだ。
★なお、本記事は、人間経済科学研究所HP>参考書籍等紹介ページの書評、『「隷従への道」フリードリヒ・ハイエク著、日経BP社』を加筆・修正したものです。本書が、ナチス・ドイツの敗色が濃くなった1944年に発刊されたことに注意されたい。この時期は共産主義勢力が拡大し始めたタイミングでもある。
大原 浩(おおはら ひろし)国際投資アナリスト/人間経済科学研究所・執行パートナー
1960年静岡県生まれ。同志社大学法学部を卒業後、上田短資(上田ハーロー)に入社。外国為替、インターバンク資金取引などを担当。フランス国営・クレディ・リヨネ銀行に移り、金融先物・デリバティブ・オプションなど先端金融商品を扱う。1994年、大原創研を設立して独立。2018年、財務省OBの有地浩氏と人間経済科学研究所を創設。著書に『韓国企業はなぜ中国から夜逃げするのか』(講談社)、『銀座の投資家が「日本は大丈夫」と断言する理由』(PHP研究所)など。