「断罪」という政治的行為
中国の歴代王朝は自らが打倒した前王朝を否定し「断罪」してきたことはよく知られている。前王朝の「不道徳性」とか「異常性」を強調することで自らの正統性を主張するのである。
「あいつはとんでもないやつだ」という主張の外には「だから自分は正しい」という主張がある。
「断罪」は立派な政治的行為であり、また実に単純な自己正当化方法でもある。
そして「断罪」は過去の外国で行われた政治的行為ではなく現在、この日本で積極的に行われている。
東京裁判の呪縛
日本で「断罪」を積極的に行っているのが「リベラル」である。「断罪」に熱心な「リベラル」は日本特有の存在なのでここでは「日本型リベラル」と呼ぼう。
この日本型リベラルは物事を「加害者/被害者」の構図にあてはめ「被害者」に寄生し一緒になって「加害者」を「断罪」する。この手法が顕著なのは中国・韓国との「歴史認識問題」であり最近では沖縄の米軍基地問題、そして在日コリアンへのヘイトスピーチ問題でも採用されている。
日本型リベラルの理解では大日本帝国は戦争の「加害者」であり中国・韓国そして北朝鮮さえも「被害者」という位置づけである。こうした「加害者/被害者」の構図で歴史を論ずる手法は間違いなく東京裁判の影響である。東京裁判では少なくない大日本帝国指導者層が「断罪」された。
当然、戦勝国に日本を裁く資格があるのかという疑問も出てくる。アメリカは空襲、原爆投下により日本の民間人を虐殺したしソ連は満州に一方的に侵攻し現地の日本人女性に性的暴行を加え関東軍兵士も多数連れ去った。
東京裁判は常にその正統性が問われてきた。しかし日本が東京裁判の結果を覆すことは政治的に不可能であるし東京裁判自体、もう70年以上前の出来事でもある。
何よりも東京裁判は戦勝国による「政治裁判」と解釈した方が理解しやすい。
政治裁判なのだからその本質は「断罪」ではなく「報復」である。だから戦勝国による「虐殺」など全く意識していないのはある意味、当然であるし同裁判で示された「平和に対する罪」とか「人道に対する罪」は「報復」を隠す「修飾」に過ぎない。
東京裁判は政治裁判なのだから、同裁判で示された「罪」に反発して大日本帝国の正当性、例えば「大東亜戦争はアジア解放戦争だった」の類の意見は東京裁判の枠組みの中にあるものである。
東京裁判で出現した「断罪」は日本国内にも適用され、それが本土と沖縄の関係である。「本土は沖縄を『捨て石』にした加害者である」とか「沖縄は米軍基地を押し付けられた『被害者』である」という具合である。
平和への脅威としての「断罪者」
「断罪」は極めて単純であり、はっきり言って誰でも出来る。
「被害者」が何か主張すればそれに同調・迎合し一緒に加害者を攻撃するだけで良い。
例えば韓国との徴用工問題も「忘れられた加害責任…」とか言えばなんとなくまとまったことが言える。
「断罪」に反発した「加害者」が「蒸し返すのか」と反論すれば「謝罪が足りない」とか「開き直るな」と加害者を攻撃すれば良い。
「加害者」「被害者」「責任」の三つの単語を意識して使えば誰でも「断罪者」になれる。
「断罪」で求められるのは「知性」や「理性」ではなく「大きな声」である。「断罪」は他人に罵声や怒声を浴びせる人間が脚光を浴びることができる。
だから他人に罵声や怒声を浴びせることしかできない人間も参加してしまう。
現在、沖縄の米軍基地周辺で「正視に耐えない」人間の存在が確認されているが、おそらく彼(女)らは他人を「断罪」することでしか自己正当化を図れない人間なのだろう。
「断罪者」はまさに中国・韓国との友好関係、そして本土と沖縄との一体性を破壊した。
「断罪者」は日本の平和への脅威と言っても過言ではない。
日本の平和を脅かす「断罪者」だが、彼(女)らの最大の関心は自分自身であり実のところ中国・韓国・沖縄のことはどうでも良い。「断罪者」にとって「被害者」は自らの社会参加のための踏み台に過ぎない。まさに「生産性がない」を地で行く者である。
「断罪者」から如何に平和を守るか
「断罪者」の淵源は東京裁判であるが、それを否定することは政治的に不可能であることは既に指摘した。
しかし東京裁判が戦勝国による「報復裁判」に過ぎなかったことを意識する程度のことはできるはずである。「報復裁判に過ぎない」と意識するだけでも「東京裁判の不当性」や「大東亜戦争の意義」を訴えることの不毛性・無意味性は理解できよう。
東京裁判の議論はともすれば国際社会から大変な誤解を受ける可能性が高い。だから不毛かつ無意味な意見には触れないよう意識して議論する必要がある。そして東京裁判の結果は覆せないという境地に達したうえで「断罪者」に対応する具体的手段として外交ではまず歴史認識問題における謝罪や補償の要求は一切拒絶することである。
内容からしても長期戦になる。だから要求された回数だけ拒絶するという決意が必要である。これは今の野党には全く期待できない。国内においては政治家・官僚といった公的立場にある者が日本を「断罪」する姿勢を見せた場合、それを強く批判していく必要がある。とりわけ「戦争責任」「加害責任」「戦後補償」といった「断罪用語」を述べた時は要注意である。
また、治安体制の充実も求められる。警察に安易に「規制」の権限を与えてはならないが人員の充実はやむを得ない。
沖縄の例を見る限り「断罪者」は集団行動を通じて他人を攻撃することを常としているから、それに対応するためにも人員の充実は必要である。実際、沖縄県警の人員が充実していれば現在の沖縄の光景も大分違っていたのではないか。
もっとも警察官数を増やして街中に警察官が並ぶ状況も異常である。あくまで「断罪者」が集団行動に出た場合に即座に対応できれば良い。このことから求められる警察官は、平時は我々市民と接点のない場所で訓練に励む警察官であり、要するにそれは機動隊である。だから現在の機動隊の人数が十分なのか検証していく必要がある。
また都市・地方の双方に景気回復を実感させ「断罪」以外の社会参加を提供していくことも必要である。
もちろん「断罪」は好景気だった昭和の時代から行われていたから景気回復により「断罪者」が消滅するとは思えないが社会参加が限られる不景気の方が「断罪者」を生み出す可能性が高いと思われる。
「保守」にしか果たせない役割
「断罪者」による不当な要求と集団威圧には断固とした姿勢が必要である。
誤解がないよう強調しておきたいが必要なのはあくまで「防御」の姿勢であり「攻撃」ではない。「断罪者」も同じ日本人である以上、「攻撃」は避けなくてはならないし東京裁判が関係する問題なので「攻撃」すれば同盟国を含む外国からの干渉を招きかねない。
だから「防御」の体制を固め「断罪者」を消耗・疲弊させ「断罪」を断念してもらうしかない。そして断念した時に別の方法での社会参加に誘導すれば「断罪者」は消滅する。このように「断罪者」から自由社会を守るための必要な戦略・戦術を整理していく必要がある。そしてこの役割は「保守」にしか果たせない。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員