国会論戦と言うぐらいだから予算委員会も戦いの場に相違ない。戦いはたいてい勝者と敗者を出す。たいていと言う訳は、偶に引き分けや痛み分けがあるからだ。その国会で戦う議員は選挙で選ばれる。選挙戦と言うぐらいだから選挙も戦いに違いない。が、そこにいるのは勝者と敗者だけだ。
然らば、国会論戦の勝ち負けはどのようにして決まるのだろう。それを決めるのはもちろん主権者たる国民だ。が、国民がそれを判断するクライテリアは一律でない。論戦の結果のみならずその過程も判断基準にするし、そもそも十人十色の好き嫌いやイデオロギーといった小難しいことだってある。
だから例えば相撲一つとっても、相撲に勝って勝負に負けた、などという訳の判らない話にも良くなるし、次から次に抜かれるマラソン選手に対して、増田明美のように「家族を大切にする真面目な人柄なんです」などと、本筋とまるで関係ない上に慰めにもならないことを言い出す解説者がいたりする。
長々と前フリした。何の話かといえば3月6日の参院予算員会での小西先生vs横畠氏の一戦だ。中継を見逃したが巷で話題になっているのでyoutubeで様子を拝見した。なるほど小西先生らしい。が、彼にしては割に冷静だったし、そう騒ぐことのほどでもないなあ、というのが筆者の感想だ。
少なからぬ野党議員に大臣ら答弁者の言葉尻を捉えて本筋でない議論に持ち込み、相手を凹ますことに汲々とする傾向があるとは良く言われることだ。筆者もそのように思う。とりわけモリカケ問題に終始した感のあるここ2年ほどはさらにその傾向が強まった気がする。
もう一つ筆者が強く感じる傾向は喧嘩腰だ。特に女性議員にそれを感じる。福島さんを筆頭に、蓮舫さん、山尾さん、西村さん、舟山さんらの名が浮かぶ(辻元さんは別の傾向)。舟山さんの質問などは筋が通っているものが少なくない。が、一寸のことで直ぐ喧嘩腰の物言いになるので辟易してしまう。中山恭子さんのようでも正論は通じるのに。
いったいこれらの傾向をもつ野党議員が、それで国会論戦に勝ったと考えているなら、それはどうだろうかと筆者は思うし、それで次の選挙に勝てると思っているとしたら、それもどうかしていると思う。きっと本人の留飲は下がるのだろう。が、無党派層の支持もそれに比例してしまうのではないか。
報道メディアがテレビや新聞だけだった頃には、答弁者が周章狼狽する姿や記事が繰り返し報じられ、見る側はそれに印象付けられた。が、昨今は論戦の一部始終を(筆者がそうしたように)ネットで見て、声の調子や表情の変化などもじっくり観察できる。つまり「切り取り」や「繰り返し」が以前ほど通用しなくなったのだ。
それが証拠に、櫻田大臣のガッカリ発言や明石市長の暴言なども、全編を通した発言がネットで流された途端むしろ擁護論が高まり、切り取り報道した側に非難の矛先が向く事態になったりする。ワイドショーのコメンテーターの好い加減な話だって、ネットで検索すれば真偽のほどが直ぐに知れる。
だから国会議員もたいへんだ。何しろただの人にならないよう選挙に勝つには支持者に受けなければならない。前フリに書いたように贔屓や思想信条や、またどこかの団体などの堅い支持票だけで当選できるなら良い。が、無党派層の浮動票だって要るはずだ。となればカッコ悪いのは拙かろう。
そこで小西vs横畠だが、筆者はあらげるではなくてあららげるなのに横畠氏もカッコ悪い、と先ず思った。若くて鼻っ柱も自尊心も強いこの野党議員が通告もなしに聞いてきたので、彼は軽くおちょくろうとしたのだろう。だのに肝心の言葉を間違って使うなんて、撤回謝罪の比でないカッコ悪さ。
片や小西先生。「長官、あらげるは誤用です。正しくはあららげるですよ。法の番人がそんな風に言葉に無頓着では困ります。法律の文言だって正しく読解していらっしゃるかどうか甚だ疑わしい」ぐらいにしておく方がカッコ良かった。横畠氏もその方がよっぽどこたえたに違いない。
共にアドリブがまったく利かないことを露呈したこの論戦、筆者の見立ては痛み分けだ。とにかく両方カッコ悪かった。
高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。