私塾が生み出す共生感:北米のMBAと異なる日本流の良さ

写真AC:編集部

私が長年所属しているビジネス系NPOで私塾を展開しています。今年で3年目になりますが、今週、今期の開塾をします。もともとこの私塾の提唱をしたのが私だったので毎年、全体のテーマとある程度の流れを提示させていただいた上であとは毎回司会をするフェロー陣に任せています。

今年のテーマは「我々は社会環境の変化に対してリーダーとなるのか、フォロワーとなるのか?」で近い将来起こりうるAI、IoT、ロボット化など働く環境、生活環境が大きく変化する中で我々生身の人間はどう対処していくべきか、というお題を年間を通じて議論します。予定ではAI(人工知能)の専門家も特別講師にお招きします。全体を通じて議論を中心に、考える癖と「モノの見方と視点」を中心に学んでいきます。

この私塾参加権者はNPOのメンバーに限っていたのですが、少しずつ枠を広げています。ただし、議論中心とするため人数限定ですべての人が同じ程度の発言機会を持てるような参加型の運営をしています。

日本で塾といえば講師が一方的にしゃべり、それを必死にノートするという昔ながらのやり方をしているところもまだ多いでしょう。そして講師は日本の賢人たちをフォローし、その言動をつぶさに学ぶことで賢人の思想を吸収し、学を得ることも多いのではないでしょうか?

日本は八百万の神とも言われますが、私塾における学びの対象も歴史上の多くの賢人であるのはそれだけ学ぶべき題材が豊富にあるとも言えます。北米のMBAでは賢人崇拝というより理論先行で経営学という枠組みの中でどうあるべきかということを必死に学びます。ある意味、テクニック論です。

ところが理論は全てではなく、実践で苦労する話はよくあるものです。カレン・フェラン著の「申し訳ない、御社をつぶしたのは私です」という書籍は絵に描いた様な著者のキャリアを背景にマッキンゼーなどでコンサル業務を通じて如何にへまをしてきたかを克明に描いています。賢人に学ぶというのはその人の経験や失敗を通じて理論や王道だけではなく、その人間が持ち合わせるテイストをビジネスに抱き合わせることで学びに面白さや深さが生まれるのだろうと思います。

また、私塾が生み出すもう一つの効果が机を並べる、であります。よく、「同じ釜の飯を食った仲」といいますが、「机を並べて勉強した」というのも同じぐらいメンタルに影響力を与える言葉ではないでしょうか?「竹馬の友」とは幼いころ一緒に遊んだ仲間という意味ですが、それは利害関係なく付き合えたという意味もあると私は捉えています。とすれば勉学は目先のビジネスや仕事とは切り離し、もっと深いものや思考の道筋などをお互いが裸になり議論できるところに良さがあるのだろう思います。

この裸になる、ですが、会社の帰りに居酒屋で仕事ネタで飲み交わすのは情報交換と感情を交えた個別案件の深堀にはなりますが、必ずしも客観性があるとは断言できません。それは嫌いな人とは飲みに行かないからです。ところが私塾のようにいろいろな業種の様々な年齢層の人が序列に関係なく、学ぶ仕組みは極めて優れていると思います。

当地にはContinuing Education とか Adult learning といった名称で生涯勉強を啓蒙するプログラムが地元政府の援助のもとにあります。これもある目的意識を持った知らない者同士が机を並べるという意味ではどんな背景の人も同一ラインに立つという意味で裸になれます。

日本は肩書や背景を背負っている社会です。その確たる証拠が皆さんの名刺は社名、部署名、肩書、そして氏名の順で印刷されています。欧米のそれとは逆です。それゆえにそんな面倒なものは一回取り去ってピュアになって学ぶことができる点で私塾はアクティブな大人のためのオアシスにすらなれるのかもしれません。

日本独特の私塾は理論だけでなく、人の深さも学ぶ点で日本的経営の良さの原点であるかもしれません。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2019年3月17日の記事より転載させていただきました。